シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

40.国際連盟、平和のための世界組織が発足

1920年国際連盟が発足した。その発足の経緯を見ていく。発起国のアメリカは参加しなかった。なぜ参加できなかったのだろうか。
・パリ講和会
ヴェルサイユ条約
国際連盟
・人種差別撤廃の提案
の順で紹介。

パリ講和会議
ドイツを中心とする同盟諸国が1918年、イギリス、フランスのなどの連合国側に降伏した。これをもって第一次世界大戦終結した。1919年1月よりパリで講和会議が開かれた。会議の成果として「ヴェルサイユ条約」が結ばれた。

ヴェルサイユ条約
第一次世界大戦講和条約である。1919年6月、パリ講和会議の結果として、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿鏡の間で調印された。ドイツに対して報復的な内容となっている。内容は多岐にわたるが、国際連盟規約、領土の処分、軍備の制限、戦争責任のあるドイツへの賠償金の支払い義務などが決まった。またアメリカ大統領・ウィルソンが提唱した「14カ条の平和原則」が審議され、ヴェルサイユ条約に取り入れられた。

なお、この「14カ条の平和原則」の内容とは
 ・国際連盟の創設(14条)
 ・民族自決の原則(10-13条)
 ・国境問題・領土紛争に関する調整(5-9条)
となっている。これにより第一次世界大戦後の国際秩序として、「ヴェルサイユ体制」が生まれる。

ちなみに「民族自決」とはそれぞれの民族のことは、その民族の意思によって、自主的に決定できる、とするものである。ドイツに対してはヴェルサイユ条約で、日本に対してはワシントン体制でそれぞれの進出を抑止した。

国際連盟
国際平和のための世界組織が1920年に創設された。イギリス、フランス、イタリアと共に戦勝国となった日本も常任理事国となった。世界の平和ための組織としてその役割が期待された。アメリカ合衆国が参加できなかった。そもそも「14カ条の平和原則」を提案したのはアメリカであった。しかしモンロー主義によって議会から否決されてしまう。このため、参加がかなわなかった。

なお、モンロー主義とは、アメリカとヨーロッパ諸国の国家間の関係性において、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間では相互に不干渉としようとするもの。第5代大統領のジェームズ・モンローが1823年に発表した。この大統領の名前を取り、モンロー主義という。

一方、旧ソ連は遅れて1934年の加盟となった。しかしその後、フィンランドへの侵攻を行ったため、1939年12月に除名されることになる。なお、以下の国々も下記の年で脱退した。
 ・日本:1933年3月
 ・ドイツ:1933年10月
 ・イタリア:1937年12月
 ・スペイン:1939年5月

国際連盟にはいくつかの問題点があった
 ・全会一致の原則である
 ・武力制裁手段をもたない
 ・大国が不参加
 などである。

アメリカや旧ソ連をはじめとする大国の不在から、国際連盟への信頼性は低下した。結局、国際連盟は、第二次世界大戦の発生を止めることができなかった。

■人種差別撤廃の提案
 なお、日本はパリ講和会議にて「人種差別撤廃」の提案を行った。   賛成票が上回ったが議長・アメリカのウィルソン大統領の権限にて否決された。

なお、賛成は、日本、フランス、イタリア、ギリシャセルビアクロアチアチェコスロバキアポルトガル中華民国

 反対は、アメリカ、イギリス、ブラジル、ポーランドルーマニア
であった。

<参考>
パリ講和会議 - Wikipedia
ヴェルサイユ条約
ワシントン会議
十四か条の平和原則 - Wikipedia
十四カ条/14ヵ条の原則
モンロー主義 - Wikipedia
国際連盟 - Wikipedia
国際連盟加盟国 - Wikipedia
人種的差別撤廃を国際会議で初めて提案したのは日本だった | 渡部昇一 | テンミニッツTV