シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

15.ニ度の蒙古襲来・元寇と暴風雨に守られた日本

鎌倉時代の二度の蒙古襲来、日本を救った暴風雨とは。
フビライ=ハンの海外への意欲的な野心
モンゴル5代皇帝のフビライ=ハンは1264年、大都(現・北京)都を移したのち、1271年に国号を大元と改称します。これで政治的中心がモンゴルから中国へと移ります。
そしてフビライ周辺諸国への侵略を繰り返します。1274年には1回目の日本遠征(文永の役)、1281年は2回目の日本への本格的な侵攻(弘安の役)、1287年にはベトナムへ遠征、1292年にはジャワへと侵攻した。
文永の役
1274年、元軍が攻めてくる。数はおよそ4万人。対馬に侵攻後、そして壱岐にも上陸し奪ったのち、今度は本土に到達。博多湾から箱崎付近に上陸、日本軍・5千が迎え撃つ。日本軍は苦戦する。しかし運よく敵将を撃つことができた。リーダーを失った元軍は船に退却をはじめる。その夜、大嵐がやってくる。そして多くの船を沈めた。元軍は退いた。
弘安の役
1281年、今度は14万の兵を率いて再来する。兵の数は3.5倍、おそらくは前回が偵察隊、今回は復讐戦、本格的侵攻と思われる。これに立ち向かうのは大将・北条時宗を始めとする武士たち。日本各地から筑紫の浜辺に集結する。そして元軍の上陸を退ける。そこへ暴風雨が到来。元軍を撤退へと追い込んだ。これが二度に渡って暴風雨、神風が吹いた。1回目の文永の役は10月。まだ台風はありえる。一方、2回目の弘安の役は5月。こちらは本格的な侵攻で危険度も高い。そのようなタイミングで、国難の時に風が吹いたのだった。
元寇で生じた恩賞問題
武士たちの努力と神風のおかげもあり、日本は元軍からの侵略を免れた。しかしここで、恩賞問題が生じる。武士たちの中には、土地や家・屋敷を売ったり、質に入れたりして金銭、旅費を工面した。一族に死者を出し一家の支えを失った者たちもいた。そんな武士たちが報われればいいが、2つの理由によりそうならなかった。1つは朝廷にあまり恩を感じてもらえなかったこと。蒙古襲来により、朝廷では祈祷を実施した。亀山上皇伊勢神宮に参拝した。朝廷はこれにより神風が吹いたと思った。結果、蒙古と戦った武士を重んじなかった。2つ目は、防衛戦であったこと。他の勢力の土地を奪うような戦ではなく、外国の勢力から守るための戦い、単なる防衛戦であったことた。結局、幕府側も勝ち得たものはなく、領土や報奨金の分配はできなかった。この蒙古襲来によって、鎌倉幕府が経済的、武士からの信頼の両面からその基盤が揺らいでいくことになった。
鎌倉時代における封建制:御恩と奉公
日本では平安時代中後期~江戸時代まで封建制度が続いていた。封建制度とは土地を介した主従関係である。封建制度にもいくつかのパターンがある。鎌倉時代封建制度は、将軍とその家臣の御家人との間の「御恩」と「奉公」で成り立つ関係である。これが、蒙古襲来をトリガーとして崩れた。
御恩:土地の領有権を認めて保護する
奉公:主君に仕えて戦ったり、労役を行ったりすること
<参考>
・増補 決定版・日本史 渡部昇一
・エリア別だから流れがつながる世界史 祝田秀全監修
・地図でスッと頭に入る日本史 監修 山本博文