シン・ニホンシ

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33.国会開催に向けた大日本帝国憲法と制度、神仏習合から神仏分離へ

当時、西洋諸国に追いつくことや、不平等条約の改正は当時の重要課題だった。特に条約改正のためには主権や意思決定の仕組みを法制度化する必要があった。ここでは、大日本国憲法選挙制度の成立、そして宗教を神道に一本化しようと試みた過程をみていく。次の順で紹介。
大日本帝国憲法
中央政府、地方制度、議会の整備
・宗教・信仰

大日本帝国憲法
 1889年、大日本帝国憲法が発布されます。これより、天皇が強い権限を持てるようになります。モデルとしては君主権の強いドイツ憲法を参考としました。憲法草案作成には1886年頃より進められました。伊藤博文を中心としドイツ人顧問・ロエスレルの助言を下に作成しました。天皇が制定し、国民に授ける「欽定憲法」の形式を採用しました。

制定の主体による区別として、民定憲法、欽定憲法があります。民定憲法国民主権に基づき、国民が直接選ぶか、あるいは議会などの国民が選んだ代表者を通じて制定される憲法です。

例として、現在の日本国憲法、19世紀当時ではアメリカ合衆国憲法、フランス1791年憲法などが挙げられます。

一方、欽定憲法は君主や大統領などが制定する憲法です。19世紀時点ではドイツのビスマルク憲法、そしてフランス1830年憲章などがあります。

大日本帝国憲法は王政復古を掲げており、天皇が国民に示す形式をとって欽定憲法としました。

中央政府、地方制度、議会の整備
国会が開設された1890年までに次のような制度がつくられていきました。
中央政府の制度
 岩倉使節団としてヨーロッパに派遣された伊藤博文らが、ベルリン大学ウィーン大学などでドイツ流の憲法理論を学びました。帰国後は国会開設や憲法制定に向けた準備を進めました。1884年華族令制度を定め華族の範囲拡大を定めました。これにより国家への功労者を華族とできるようにしました。

・内閣制度
 1885年に制定しました。太政官制度を廃止して総理大臣を置きました。伊藤博文を初の総理大臣としました。

・地方制度
 山県有朋らがドイツ人顧問・モッセの指導のもとに整備しました。1888年に市制・町村制を公布、1890年に府県制・郡制を公布しました。

帝国議会
 貴族院衆議院を構成しました。両院の権限は対等としました。1890年に第1回衆議院議員総選挙を行いました。

■宗教・信仰
 明治政府発足後より神道、仏教、キリスト教を次の扱いとしました。

神道
 1868年に政府は王政復古、祭政一致の立場をとり、神道を国教としました。1868年に神仏分離令を発令しました。

・仏教
 神仏分離令もあって寺院や仏像が破壊されるなど廃仏毀釈が激化しました。

キリスト教
 禁教政策をとり、迫害しました。しかし列強からの抗議を受け、1873年からはキリスト教を黙認するようになりました。

 神道の国教化の趣旨として、王政復古もあり欧米列強に負けない国造りをしようとしました。国家・国民をひとつにまとめる必要がありました。そこで古来からの神道による祭政一致を目指します。しかし神仏習合により神道と仏教の明確な区分けがありませんでした。

 明治政府は神祇省を設立します。神仏分離令を発令して神道と仏教の分離を目指します。寺院は役所に似た働きもしており、また徳川時代から強い力を持っていたため 寺院から役割をはく奪をしようとしました。

 しかし結果は失敗します。日本の寺社にあった貴重な文化財廃仏毀釈により破壊されました。仏教、キリスト教を残すことができました。

 現在、神社とお寺はおおよそすみ分けが進んで分離されています。今でも神仏習合の名残をかいま見えるのは、例えば日光東照宮で、境内に五重塔がみられます。

<参考>
・ハンドブック 日本史の要点整理
ヘルマン・ロエスレル - Wikipedia
アルベルト・モッセ - Wikipedia
神仏分離令とは|神仏分離の目的や廃仏毀釈等への影響をわかりやすく解説 | 神仏.ネット