シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

130.物部氏と蘇我氏の崇仏論争

日本には古来よりアニミズム信仰、神道の思想がありました。これに対して仏教を国家的に採用しようとしていた時期がありました。崇仏論争の末、587年に蘇我氏物部氏の間で丁未(ていび)の乱が起きます。その当時、高天原側ではどんな議論があったのでしょうか。
■崇仏論争
538年に正式に仏教が導入されると、仏教の教えが信仰の対象となっていきます。物部氏は仏教の導入の反対派、蘇我氏は賛成派です。
物部氏の主張
仏教を導入すると日本古来の神々の機嫌を損ねるのではないか。国に何か災いが起きるのではないか。また仏教はインドの神である。なぜインドの神を日本に入れるのか。神聖な国が侵されてしまうのではないか。よって異国の神々を入れるべきではない。
蘇我氏の主張
良い教えならなぜ反対するのか。異国の神々であっても真理はひとつ。日本の神々も仏教の導入に対して迷惑がったりすることはないのではないか。なお、聖徳太子も、蘇我氏とともに仏教の導入の活動を精力的に行いました。その結果、聖徳太子によって仏教が広まりました。またそれにあわせて儒教も当時の日本の人びとの精神の中に取り込まれていったようです。
■向原寺
百済聖明王より日本に仏像が献上されます。この仏像を蘇我稲目は小墾田(おはりだ)の向原(むくはら)の家を浄め、祀って(まつって)寺としたとされます。これが日本で最初のお寺となります。しかし当時国内で疫病が流行していました。物部尾輿はその原因が、仏教を受け入れたことにあるとしました。そして向原の寺を焼き払いました。さらにはその仏像を難波の堀江に投げ込んだとされます。現在、高市郡明日香村豊浦に建つ向原寺は、その蘇我稲目の家でもあり、向原の寺でもある場所に、後に推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)を造営。これが現在の向原寺(こうげんじ)となっています。
■仏教の導入時に高天原ではどのような話があったのか?
実際地上では仏教導入でモメていたわけですが、高天原・天上界ではどのようなことが起きていたのでしょうか。天上界でもいろいろと考えがあったようです。日本という国は自分たちの教えで統一していきたいという思い。一方仏教系の神々は日本の国にも仏法という法を広めておきたい。真理はひとつであっても個性の違いや伝え方の違いがある、そういうことは認識されていたようです。
■崇仏論争の結果
その後、地上としては蘇我氏の賛成派が丁未(ていび)の乱で勝ちます。しかし、その後その蘇我氏乙巳の変(645年)で滅ぼされました。なお滅ぼされたのは蘇我宗家とされており、蘇我の一族全体ではありません。その後、土着の神道と、仏教が融合するという神仏習合が起こっていきます。この神仏習合を表す建物が、福井県敦賀市にある越前国一之宮の氣比神宮(けひじんぐう)とされています。
<参考>
丁未の乱 - Wikipedia
仏教伝来による波紋と対立 | ますます知りたくなる大化の改新
氣比神宮・大鳥居
など