シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

09.秦氏の渡来と仁徳天皇陵古墳の建造

秦氏とは何だろうか。何をした人たちだろうか?
秦氏の渡来
第15代、応神天皇(在位:270年~310年頃)の時代、秦氏が渡来したとされる。秦氏は高度な技術、経済力を持っていたとされる。彼らの技術を借りながら古墳を建造していったと考えられる。
■日本書記の記述
日本書記の「応神天皇」の条に、秦氏に関する記述がみられる。第16代天皇仁徳天皇(在位:313-399)であったが、大仙陵古墳仁徳天皇陵)は仁徳天皇を祭った墓とされる。
仁徳天皇陵の形
形はかぎ穴型をしている。実際はつぼ型と考えられる。よく教科書などに載っている上下をひっくり返すと、つぼ型となる。古墳の丘「墳丘」は3段で形成されている。左右のくびれをなす部分が「造り出し」だ。つぼの取っ手部分にあたる。また、三重(さんじゅう)の濠(ごう・土地を掘って水を通すところ)は水を貯める場所であり、水と親和性が高い。
■古代ユダヤの3種の神器
ユダヤには3種の神器があるとされる。1つは十戒の石板、2つめはアロンの杖、3つめはマナの壺、合計3つ。秦氏ユダヤ系統の一族と考えられる。仁徳天皇陵古墳は、
建築技術を使い、古代ユダヤのシンボルとなる。「マナの壺」を形どったのではないか。
■造り出し部分のコンピューターグラフィックスの再現
これまで造り出し部分があいまいであった。このためつぼの取っ手部分があるというのが妄想のように扱われていた。しかし、最近の研究によってコンピューターグラフィックスにより、取っ手の部分が再現された。つぼ型を意識していることは間違いないだろう。
秦氏の古墳の建造理由
秦氏天皇を祭る大規模なお墓を造りながら、当時の権力者へ貢献しつつ、彼ら民族の技術力を発揮し、徐々に存在感を高めていったのではないか。
■参考:
古墳時代について:時代区分上では、弥生時代が前10世紀~後3世紀中頃、古墳時代は3世紀中頃~7世紀頃とされている。次の飛鳥時代の始まり(聖徳太子が成人する頃)まで古墳が建造されていく。古墳自体は全国に平成24年時点で約16万基あり、相当な数にのぼる。最初の原型をもとに、時代を重ねながら模倣されていったとみられる。
②秦の始皇帝陵との比較:秦氏の先祖を辿ると秦の始皇帝とされる書物もあるらしい。
真偽は別として、秦の始皇帝陵は紀元前3世紀、大きさは350m、仁徳天皇陵は5世紀、大きさは486m。