シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

35.ロシアとの対立がもたらした日英同盟、そして日露戦争へ

三国干渉後に遼東半島を清に返還させたロシアは「東清鉄道」を建設し、南下政策をすすめていく。ロシアをけん制したい英国は日本と利害が一致し、同盟を結ぶことになる。
目次
・ロシアの東清鉄道を建設
義和団事件
日英同盟
日露戦争(1904年2月~1905年9月)
・日本単独での戦いとなった背景
・機を見て行ったポーツマス条約

■ロシアの東清鉄道を建設
日清戦争(1894年7月から1895年4月)、三国干渉(1895年4月)を経て日本に干渉したロシアは清に対して見返りを要求する。1896年、露清密約を結び南下政策を進める。これによりロシアは清より満州の鉄道敷設権を獲得し、シベリア鉄道と接続する。まず既存のシベリア鉄道では、モスクワ方面からハバロフスク経由で極東のウラジヴォストークを結んでいた。これに対して「東清鉄道本線」の敷設権を獲得。モスクワからハルビン経由でウラジヴォストークまでを結ぶ(1903年全線開通)。またもうひとつ「東清鉄道南満州支線」を敷設。ハルビン~大連~旅順を結ぶ(1904年全線開通)。東清鉄道本線から分岐して、遼東半島に至るルートである。

義和団事件
1899年に民間宗教団体である義和団が起こした事件。義和団武装蜂起し、主にキリスト教の宣教師などの外国人排斥を行う。排斥には欧米優位、アジア蔑視の思想なども影響しているとされる。当初は清朝も鎮圧を図ろうとしたものの、北京が占領されたことなどを起因として一転、清朝も支持に回る。1900年6月には列強へ宣戦布告する。イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・ロシア・日本などの8ヶ国連合軍は共同で出兵する。事態は終結するが、ロシアは満洲から撤兵しなかった。これがイギリスにも影響を与え、日英同盟につながる。

日英同盟
ロシアの東アジア進出を警戒していたイギリスは、ドイツのヴィルヘルム2世の積極的な海外膨張政策に対抗する。軍艦建造を競い合い、極東に資金や戦力を割く余裕はなかった。このためイギリスはロシアの極東での抑止力として、日本との利害が一致、1902年に日英同盟が結ばれた。

日露戦争(1904年2月~1905年9月)
ロシア側にも極東進出の背景がある。まずロシアはフランスと1894年、露仏同盟を結んでいた。そしてドイツは欧州での対立を避けるためロシアの極東進出を支持していた。三国干渉は、利害が一致したロシア、フランス、ドイツからの通告であった。このような中、ロシアの南下政策に関連した満州、朝鮮をめぐる日本とロシアの対立は頂点に達した。1904年、日露戦争へと向かう。

■日本単独での戦いとなった背景
イギリスは日本と日英同盟を結んでいた。しかしイギリスは当時、南アフリカ戦争(1899年~1902年)の直後であった。一方、アメリカもロシアを警戒しており日本を支持していた。しかし、フィリピン=アメリカ戦争(1899年~1902年)により介入できなかった。結局、日本は単独でロシアと戦うことになった。

■機を見て行ったポーツマス条約
日露戦争は主に満州日本海黄海あたりの局地戦であり、ロシア本土での戦いではない。日本に戦争を継続する力もなかった。そのような中、ロシアで第一次ロシア革命(1905年1月 - 1907年6月)が起こり、ロシア国内が混乱する。また、日本海海戦東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊に壊滅的打撃を与えて勝利。この優位な状況を利用して1905年9月には「ポーツマス条約」を結ぶ。朝鮮半島におけるロシアへの優位性を獲得する。小国が大国に勝利したという事実が、列強に屈していた民族の自立を促すことになっていく。

<参考>
・世界史から読み解く日本史
露清密約 - Wikipedia
東清鉄道/中東鉄道
義和団の乱 - Wikipedia
南アフリカ戦争/ブール戦争/ボーア戦争
フィリピン=アメリカ戦争
日露戦争:20世紀初の国家総力戦、大国相手に日本が勝てた理由と世界に与えた影響 | nippon.com
ロシア第一革命 - Wikipedia
ポーツマス条約 - Wikipedia
日本海海戦 - Wikipedia
日露戦争地図 | 日露戦争特別展2