シン・ニホンシ

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138.馬冑と馬形の埴輪から「人と馬との関係」への理解を深める

今回は「馬」をテーマに古墳からの出土品を紹介する。馬という切り口から古代日本を探り、「人と馬との関係」への理解をより深める。
■馬冑(ばちゅう)
馬冑とは、馬のかぶとのこと。福岡県古賀市の「船原古墳」で馬冑が2013年に出土した。発見時はばらばらであった。復元作業が終わり、2016年にニュースとして報道された。その馬冑の全長48.5センチメートル。合計6枚の鉄板を鋲(びょう)でつなぎ合わせて作られている。古墳時代後期、6世紀末~7世紀初めのものとされる。馬冑は他の古墳では和歌山県和歌山市の大谷古墳が5世紀のもの、埼玉県行田市(ぎょうだし)の埼玉将軍山(さきたましょうぐんやま)古墳は6世紀のものとされる。馬冑の発見例はめずらしいそうだ。朝鮮半島での出土例を含めても20例ほどとなる。
参考:産経記事 古墳時代

www.sankei.com■馬形埴輪
群馬県伊勢崎市日之出町の蛇塚古墳を下記リンクに示す。ちなみに蛇塚古墳は「太秦」にも存在するがそちらではない。鼻面(はなづら)を引き、髦(たてがみ)を持つ。1号馬は126cm、2号馬は136cmとされる。石室や出土遺物から6世紀後半とされている。馬の埴輪の出土例は多数ある。めずらしいタイプのものとして、馬に「小さな人」が乗っている埴輪も存在する。
参考:伊勢崎市↓

www.city.isesaki.lg.jp■人と馬との関係
東京国立博物館のサイトにて「人と馬」の関係が示されている。以下で要約しつつ引用をさせて頂いた。
・人と馬の関係は「乗馬」に象徴される
・起源は西アジアのイラン地方
・人間が乗る「鞍」と馬をコントロールする手綱(たづな)や轡(くつわ)が整備された。
明確には紀元前1000年頃から西アジアアッシリアの浮彫等に見られる
・やがて
中央アジアのスキタイ民族(紀元前6世紀~紀元前3世紀)などの影響で、広くユーラシア大陸に拡がった
・紀元前5世紀頃、ローマ軍でも重装歩兵と騎兵が一般的な存在となっていった

・中国では殷代(紀元前1600~紀元前1100年)後期に2輪車の戦車の使用が始まる
西周(紀元前1100~紀元前756年)末期の紀元前8世紀頃から青銅や鉄製の轡がみられる
・春秋・戦国時代(紀元前770~紀元前221年)末期の紀元前4世紀頃から騎馬戦法を駆使する北方遊牧民族匈奴(紀元前4世紀 ~紀元後1世紀)が中原に侵入するようになる
・紀元前3世紀以降、漢代(紀元前206~紀元後8年)には中国の農耕民族と激しく対立していた
後漢代(紀元後25~220年)になると乗馬が不得手な農耕民族が乗降り用の鐙(あぶみ)を発明。現在の馬具の形が完成された。
・東アジアの乗馬や馬具はここが起源。4~5世紀には中国東北地方や朝鮮半島に馬の飼育を伴い拡大して日本列島にも伝えられた。
参考:東京国立博物館 - 1089ブログ

www.tnm.jp騎馬民族征服説
そんな人と馬との関係であるが、古墳時代中頃に日本列島に大陸から騎馬民族がやってきて倭の人びとを支配し、大陸由来の文化を普及させたとする説がある。民族学者の江上波夫氏によって唱えられた。しかし騎馬民族でなくても古墳時代の前期と中期以降の文化の違いが説明できるという点において否定された。
■まとめ
馬冑の出土は以下となる
和歌山県和歌山市の大谷古墳:5世紀
・埼玉県行田市の埼玉将軍山:6世紀
・福岡県古賀市の船原古墳:6世紀末~7世紀初め
・馬冑の発見例は朝鮮半島での出土例を含めても20例ほど、希少
<参考>
・歴史REAL 古代史の謎 ここまで解明された空白の時代
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