今回は「双脚輪状文」をテーマに古代をさぐる。これより、九州と和歌山や群馬につながりがあったのではないかということを示す。次の流れで紹介していく。
・双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)
・スイジガイ
・和歌山県・岩橋千塚古墳群における双脚輪状文
・群馬県・中二子古墳
・装飾壁画の中の双脚輪状文
・まとめ
■双脚輪状文(そうきゃくりんじょうもん)
輪っか状のものに二股の脚がみられる埴輪である。
形象埴輪に分類される。
双脚輪状文埴輪は冠帽として被っている状態の埴輪が見つかった。
これより、帽子のようなものであることがわかっている。
下記は井辺八幡山古墳(いんべはちまんやまこふん)で見つかった双脚輪状文埴輪。
↓は東京新聞Web、井辺八幡山古墳で見つかった双脚輪状文埴輪
参考:全国遺跡総覧、双脚輪状文の交流 装飾古墳の双脚輪状文と和歌山県岩橋千塚古墳群出土埴輪を考える
■スイジガイ
双脚輪状文埴輪の形状はスイジガイをもとにしているのではないかとする論文がみられる。
スイジガイは日本では紀伊半島以南の沿岸地域、沖縄や奄美といった南西諸島で産出。
↓はwikipedia、スイジガイ
スイジガイは古墳の副葬品に貝釧として出土することがある。
↓は文化遺産オンライン、貝釧路、静岡県磐田市 松林山古墳出土(4世紀)
また、巴形銅器(ともえがたどうき)は2世紀、弥生時代の終わり頃からつくられたとされる。
この巴形銅器はスイジガイを模したものではないかとする説が有力。
↓は文化遺産オンライン、巴形銅器、山口市 赤妻古墳出土、5世紀
■岩橋千塚古墳群における双脚輪状文
岩橋千塚古墳群の所在は和歌山県の東部、和歌山市岩橋。
古墳の総数は850基ほどから成るとされる。
築造年代は4世紀末から7世紀。
中でも6世紀後半に多く築造されたとされる。
・井辺八幡山古墳
・大谷山22号墳
・大日山35号墳
で双脚輪状文がみつかっている。
↓は過去記事、岩橋千塚古墳群を扱った回
↓は和歌山県紀伊風土記の丘、大日山35号墳から出土した双脚輪状文埴輪
↓はwikipedia、大谷山22号墳
■群馬県・中二子古墳
関東では
・群馬県中二子古墳
で双脚輪状文埴輪がみつかっている。
中二子古墳は6世紀前半に築造された前方後円墳。
毛野地域では第10代崇神天皇皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が毛野の祖となっていったエピソードが示されている。
↓は過去記事で二子古墳を扱った回
↓は豊城入彦命が登場する回
■装飾壁画の中の双脚輪状文
双脚輪状文は埴輪としてだけではなく、横穴式石室の石屋形に壁画として描かれることがある。
九州では
・福岡県・桂川町王塚古墳
・福岡県・広川町弘化谷古墳
・佐賀県・鳥栖市田代太田古墳
・熊本市・横山古墳
・熊本市・釜尾古墳
・大分県別府市 鬼の岩屋第2号墳
などでみつかっている。
装飾古墳は4世紀末頃から7世紀頃まで造られた。
全国の装飾古墳を九州で56%以上を占める。
↓は装飾古墳とはなにかを扱った回
↓は九州国立博物館、弘化谷古墳の双脚輪状文が画像でわかる
■まとめ
・双脚輪状文は輪っか状のものに二股の脚がみられる形象埴輪、シャンプーハットに似た帽子
・九州では装飾壁画としてみられる
・双脚輪状文埴輪としては近畿では和歌山県、岩橋千塚古墳群、関東では群馬県・中二子古墳などでみられる
結論:
ヤマトタケルの東征(西暦300年前後)後、双脚輪状文埴輪から和歌山、群馬などと文化的あるいは風習的な価値観によるつながりがあることがわかる。
王権の主体が近畿に移動したためだろうか。
九州では装飾古墳の壁画として芸術が芽生えていることがわかる。
そのような中で古来からのスイジガイが描かれたり、冠帽となった可能性が高い。
<参考>
・紀国造家の実像をさぐる 岩橋千塚古墳群
・東海大学大学院 / 双脚輪状文の成り立ちと展開
https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/zenbun_k_kato_shunpei_2016._?key=IIGTHG