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389.野中寺・金銅弥勒菩薩半跏像の中宮天皇とは

海老錠が出土している野々上遺跡(大阪羽曳野市)。その近隣、野中寺(やちゅうじ)は渡来系氏族の船氏(ふねうじ、ふなうじ)と関りがあるとされる。今回はその野中寺が保有していた時期があるという金銅弥勒菩薩半跏像の框(かまち)に刻まれた文字について取り上げる。次の流れで紹介していく。

・野中寺(やちゅうじ)
・金銅弥勒菩薩半跏像と框(かまち)に刻まれた文字
中宮天皇とは誰か

■野中寺(やちゅうじ)
高野山真言宗の寺院。
所在は大阪府羽曳野市野々上。
聖徳太子蘇我馬子の助力を得て建立、蘇我馬子が開基と伝わる寺という。

ただし、西暦650年の瓦などが出土、発掘調査によって650年(白雉元年)頃の創建ではないかとされる。

蘇我馬子の生没年は不明(551年?)~626年、聖徳太子(別名、上宮王、豊聡耳など)は574年~622年。

1918年、寺内の蔵から金銅弥勒菩薩半跏像が発見されている。

■金銅弥勒菩薩半跏像と框(かまち)に刻まれた文字

像高18.5cm。
台座の框(かまち)部分に1行2字で31行、計62文字が刻まれている。

丙寅年四月大旧八日癸卯開記
栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
請願之奉弥勒御像也
友等人数一百十八
是依六道四生人等此教可相之也

中宮天皇が病気になったとき「栢寺」の知識(信徒)らが平癒を請願し奉った弥勒菩薩像であるという。

丙寅年は西暦666年(天智天皇5年)が定説とされる。

中宮天皇とは誰か
中宮天皇が誰かについてはいくつか説があり、天智天皇説、斉明天皇説、間人皇后説などがあるという。

斉明天皇は生没年で594年~661年のため666年には既に死亡している。

天智天皇は在位:668年~672年、生没年:626年~672年、在位は668年からである。

人皇(はしひとのひめみこ)は生年不詳~665年、孝徳天皇の皇后。

栢寺の「栢」はカシワ、カヤ、呉音でヒャク、漢音でハク。

三人の中で最も可能性の高いのは間人皇女である。

人皇女は斉明天皇(661年)崩御後、兄の天智天皇(諱は葛城)が668年に即位するまで中継ぎとして一時的に皇位に就いていたとする説がある。

これとは別に万葉集の「中皇命」が間人皇女ではないかとする説がある。

すると、野中寺の金銅弥勒菩薩半跏像の「中宮天皇」そして万葉集の「中皇命」と間人皇女を同一とみなすこととなる。

現在のところ、間人皇女が皇位についていた可能性が最も高い。

つまり、この時代の天皇の順序は
・皇極→
・孝徳→
・斉明(皇極の重祚、661年崩御
・間人皇(665年崩御)
天智天皇(668年即位、中大兄皇子は即位の儀を行うことなく成務についている)

となる。

↓はwikipedia、金銅弥勒菩薩半跏像

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↓はwikipedia、野中寺

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↓はwikipedia、間人皇

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