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390.船氏王後墓誌(ふなしおうごぼし)

前回、前々回で野中寺つながりにて船氏を紹介してきた。今回は日本最古の墓誌、船氏王後墓誌(ふなしおうごぼし)を取り上げる。次の流れで紹介していく。

・船氏王後墓誌(ふなしおうごぼし)
・西琳寺(さいりんじ)
墓誌の内容
・松岳山古墳群
・松岳山古墳
・茶臼塚古墳

■船氏王後墓誌(ふなしおうごぼし)

船氏王後は王智仁(王辰爾)の孫で、那沛故の子。
船氏王後首の経歴などを記録した銅製の墓誌

江戸時代、松岳山の丘陵から出土したという伝承があるが正確な時期や出土場所は不明。
その後、西琳寺大阪府羽曳野市に所蔵されていた時期があるという。

墓誌の形は長方形の短冊形。表面にかすかに鍍金が残っているという。
大きさは長さ29.7cm、幅6.9cm、厚さ0.1cm。
表裏に各4行、表面に86文字、裏面に76文字、計162文字の銘文がある。

墓誌が造られた年代は668年と考えられている。

最古の墓誌である。
ただし文体や用字などから製作年代を7世紀末葉まで下げる説がある。

船王後の死没年は642年。追葬などが関連しているものと見られる。

↓は文化遺産オンライン、銅製船氏王後墓誌

bunka.nii.ac.jp

■西琳寺(さいりんじ)

大阪府羽曳野市にある高野山真言宗の寺院。
7世紀前半に王仁(わに)の後裔である西文氏により創建されたとみられている。
王仁は漢の高帝の子孫である渡来人。

「西琳寺文永注記」によれば、志貴嶋天皇欽明天皇)20年に
・大山上の書大阿斯高君(文首阿志高)
 ※大山上:649年から685年まで用いられた冠位。
・支弥高首(書大阿斯高君の子)
栴檀高首(阿斯高君あるいは支弥高首の子)
・土師長兄高連
・羊子首
・韓会古首
が創建したという。

墓誌の内容

下記、大阪府柏原市より引用する。

船氏王後墓誌 | 大阪府柏原市


惟船氏故

王後首者是船氏中租

王智仁首児

那沛故首之子也生於乎婆陁宮治天下
天皇之世奉仕於等由羅宮
治天下
天皇之朝至於阿須迦宮治天下
天皇之朝
天皇照見知其才異仕有功勲
勅賜官位大仁品為第


三殞亡於阿須迦
天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故
辰年十二月殯葬於松岳山上共婦
安理故能刀自
同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万
代之霊其牢固永劫之寶地也

現代語訳は

船氏王後首は王智仁首の孫、那沛故首の子です。
乎裟陁宮治天下天皇敏達天皇の時に生まれ、等由羅宮治天下天皇推古天皇に仕え、阿須迦宮治天下 天皇舒明天皇の時にはすぐれた才能を認められ、冠位十二階の第三等にあたる「大仁」の位を賜りました。

そして辛丑年(641)12月3日に没しました。
その後、戊辰年(668)12月に松岳山上に埋葬しました。
夫人安理故能刀自と共に同じ墓に埋葬し、墓は兄の刀羅古首の墓と並んで作りました。この地 は永遠に神聖なる霊域であり、侵してはなりません。

■松岳山古墳群
松岳山古墳群は、3世紀末~4世紀後半頃の築造と推定されている。
松岳山古墳など9基以上の古墳で構成。
松岳山古墳、茶臼塚古墳以外の古墳は消滅している。

■松岳山古墳
所在は大阪府柏原市国分市場。

4世紀前半の古墳。

形式は前方後円墳
墳丘長130m。
埋葬は積石塚状施設。
内部に長持形石棺の原型式の組合式石棺がある。

かつて丘陵は「松岡山」と表記された。
現在「松岳山」と表記されるのは船氏王後墓誌の出土地に推定されたことによる。
大阪府柏原市の見解では、7世紀中葉に当該地が船氏の墓域であったとして松岳山古墳群を船氏と結びつけるのは無謀。
その間約300年。
ただ松岳山古墳の被葬者を船氏の祖先と意識して、この地に墓域を設定した可能性は考えられるかもしれない。
とされる。

本古墳含む松岳山古墳群は前期古墳群であり船王後と時期が異なるため現在では否定されているという。
↓はwikipedia、松岳山古墳

ja.wikipedia.org

■茶臼塚古墳

所在は大阪府柏原市国分。
築造は4世紀。
形状は長方形墳。
埋葬は竪穴式石室。
竪穴式石室内の副葬品に

三角縁神獣鏡:1面
・四獣鏡:1面
・碧玉製の鍬形石:6点
・車輪石:8点
・石釧:41点
・小刀:2本
・鉄斧:1本
・鎌:1本
・やりがんな:2本
などがみられる。
宗教、農業、大工の道具がみられる。

同時期と考えられる松岳山古墳にほとんど接するように構築されており、松岳山古墳の首長を補完する役割を担った人物ではないかと想定されている。

<参考>
船氏 - Wikipedia
王仁 - Wikipedia
大山上 - Wikipedia
船氏王後墓誌 | 大阪府柏原市