シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

464.アレクサンドロス大王東征後のインド周辺の国々~ギリシャ、ペルシャ、アフガニスタン~

アレクサンドロス大王の東征後、オリエント文化が栄えていった。そしてやがてインドの仏教が中央アジアへと伝わり日本に伝来する。その間、ギリシャやイランの民族の東への移動があり、やがてその文化は日本へとたどり着いた。次の流れで紹介していく。

アレクサンドロス大王の東方遠征がもたらした歴史的な3つの意義
グレコバクトリア王国
・インド・グリーク朝
・インド・パルティア国
・張騫(ちょうけん)による西域の訪問
・サカ・スキタイとバジリク古墳群
月氏と大月氏国とクシャーナ朝
・インド・スキタイ王国
・サカ・スキタイとバジリク古墳群
バーミヤン遺跡
・トカーレスターンと日本の関り
玄奘と道昭
・栃木県宇都宮市の大谷寺とバ―ミヤン石仏

アレクサンドロス大王の東方遠征がもたらした歴史的な3つの意義

アレクサンドロス大王は、フィリッポス2世の子としてマケドニアギリシャの北部)の都・ペラに生まれた。

生没年は紀元前356年~紀元前323年。

紀元前334年にマケドニアを出発し、東方遠征を行った。

わずか8年間のうちに中東地域(アラビア半島を除く)、エジプト、中央アジア、そして北インドの一部にまで達した。

アレクサンドロス大王の歴史的意義は大きく3つあるという。

・1つは戦いを通して小さな利害で衝突していた各国をまとめあげた

・2つめは心臓のポンプとしての役割と血管の大動脈のようにギリシャやエジプトの文化を融合したうえで各国へと伝わっていった

・3つめは人々に自由を与えた。
ギリシャ智慧や芸術を運び、当時の人びとに戦争をするために働く、負けて奴隷になるという構図以外の思想的、芸術的、精神的な自由、喜びをもたらしたとされる。
↓はアレクサンドロス大王の東方遠征について紹介した回

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この東征以前にもギリシャ人の東への移動はあったが、特に東征後、ギリシャ人の国家がインド近隣にできる。

グレコバクトリア王国や、インド・グリーク朝などである。

グレコバクトリア王国

ギリシア人王国。

場所はヒンドゥークシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、タジキスタンカザフスタンの一部という)

時代は紀元前255年頃~紀元前130年頃。

中心地はバルフ、現アフガニスタンのを中心として建てられたとされる。

↓ではグレコバクトリアを滅ぼしたトカラ国(トカーレスタン、現在のアフガニスタン北部のタジキスタンウズベキスタンにまたがる地域)を紹介

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■インド・グリーク朝

ギリシア人の諸王国。
場所はインド亜大陸北西部
時代は紀元前2世紀頃~西暦後1世紀頃。
↓はwikipedia、インド・グリーク朝

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東征はペルシャ人(現イラン)の東への移動をもたらした。

■インド・パルティア国

パルティア人のゴンドファルネスによって建設された王国。

場所は現在のアフガニスタンパキスタン北インドを含む領域。

時代は1世紀頃。

なお、パルティアとは古代の紀元前・247年~紀元後・224年のイランの王朝とされる。

パルティアは古代中国では安息とされる。

ペルシャは古代中国では波斯(はし)と表記された。
↓はwikipedia、インド・パルティア国

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西域と中国とのつながりについて。

張騫(ちょうけん)が西域を訪問、大月氏へと赴き漢に西域の情報をもたらしたとされる。

■張騫(ちょうけん)による西域の訪問

前139年ごろ、漢の武帝匈奴と戦うため同盟を求めて張騫を大月氏国に派遣した。

張騫は前129年ごろには大月氏国に到着した。

しかし同盟は不成立となった。

この大月氏国は中国の三国時代において、魏に対し、倭国卑弥呼よりも早く魏に朝貢していることがわかっている。

卑弥呼が魏に朝貢をした際、親魏倭王の金印を授かったのは239年とされる。

この前に大月氏(だいげっしこく)が魏に朝貢、「親魏大月氏王」を授かっている。

↓は張騫について取り上げた回

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↓は大月氏の魏への朝貢を取り上げた回

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月氏、大月氏国について。

月氏と大月氏国とクシャーナ朝

匈奴族と敵対していたという月氏について。

前3世紀の末、冒頓単于(ぼくとつぜんう)率いる匈奴に攻撃されて敗れた。

その月氏の主力は西方に逃れた。
そして天山山脈の北、イリ地方に移動した。
その際に移動した月氏が大月氏国とされる。
↓は月氏について取り上げた回

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イラン系、大月氏と関わる者に、1世紀から3世紀頃のクシャーナ朝がある。

クシャーナ朝は、場所は中央アジアから北インド、時代は1世紀から3世紀頃まで。

イラン系の王朝とされる。

クシャーナ朝は大月氏の一派、あるいは土着のイラン系有力者によるものとされる。

↓はwikipediaクシャーナ朝

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クシャーナ朝のラバータク碑文バクトリア語で書かれている。
西暦2世紀頃に中央アジアから北西インドまでの領域を支配したとされる。
碑文の文章はギリシア文字を使用してバクトリア語で23行、1200字ほど。

発見された場所はカフィル・カラ遺跡でソグディアナの中心都市であるサマルカンドから南に約12km、ダルゴム運河沿いに位置する都市遺跡。
カフィル・カラとは「異教徒の城」という意味。

ラバータク碑文を取り上げた回、碑文の内容はリンク先を参照のこと

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続いて、インド周辺におけるスキタイについて。

■インド・スキタイ王国

スキタイ系のサカ人による諸王朝。

場所は西北インド

時代は紀元前1世紀。

・インド・スキタイ朝
・インド・サカ王朝
・サカ王朝
・サカ王国
とも。

インド・グリーク朝の文化を受け継ぐという。

↓はwikipedia、インド・スキタイ王国

ja.wikipedia.org

■サカ・スキタイとバジリク古墳群

サカはサカイ、あるいはスキタイとも呼ばれる。

スキタイは古代東イランの騎馬遊牧民

言語的にはスキタイ人はインド・イラン語派、「アーリア人」とされる。

そのスキタイの古墳にパジリク古墳群(パジリク遺跡)がある。

所在はロシア連邦アルタイ共和国の標高1600mのパジリク河岸。

カザフスタン、中国、モンゴルの国境に近い地域にある。

モンゴル西部でも同様の埋葬地が多数発見されているという。

墳墓(クルガン)群で、スキタイの鉄器時代の墓とされる。

古墳群は
・大型円墳:5基
・小型円墳:9基

から構成される。

パジリク古墳群は紀元前3世紀前半頃のものとされる。

大型墳について。
直径は24~47m、高さは2m~4m。
積石塚がある。
その地下に長方形の墓壙が彫られている。
内部に墓室がある。

墓室の素材はカラマツ材。
木棺、副葬品が納められている。

出土品に
・馬具を着けた去勢された馬が7~14頭葬られていた
・大型墳のうち1基から馬車が出土

また遺物に下記を材料とした衣服、生(用具、装身具などがみられたという。
・土器
・金属製品
・木
・織物
・皮革

↓はサカ・スキタイとパジリク古墳群について取り上げた回

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バーミヤン遺跡

バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群は2003年に世界遺産に登録された。

バーミヤン渓谷の所在はアフガニスタンの首都であるカーブルの北西230kmの山岳地帯。
バーミヤンの近郊ではバクトリアによって、1世紀から石窟仏教寺院が開削され始めたという。

グレコバクトリア様式の流れをくむ仏教美術であるという。

5世紀から6世紀頃には
・西大仏:高さ55m
・東大仏:38m
などの多くの巨大な仏像が彫られたという。

そして石窟内にグプタ朝(古代インド、西暦320年~550年頃)のインド美術、サーサーン朝のペルシア美術の影響を受けた壁画が描かれたという。

新羅の官位にはササンがみられることを紹介した回

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なお、中央アジアは東西、南北の文明が出会う文明の十字路であった。
うち、ガンダーラは1世紀~5世紀頃、バーミヤンは6~8世紀において栄えた拠点とされる。

バーミヤンの歴史に関連し、2024年、東京・三井記念美術館では「文明の十字路 バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰 ―ガンダーラから日本へ―」が開催された。

東大仏の頭上に表された、ゾロアスター敎の太陽神ミスラの姿示した書き起こし図(壁画がは6世紀後半という)などが公開された。

■トカーレスターンと日本の関り

孝徳天皇5年・654年にトカラ国からの来訪(漂流し)があり、このトカラがトカーレスターンと考えられている。

トカラ国(※1)の男性2人と女性2人、そして舎衛(※2)の女性1人が風に流され日向に流れてきた。

このトカラ国はトカーレスターンを指す。

現在のアフガニスタン北部のタジキスタンウズベキスタンにまたがる地域。トカラはトハラとも。トハラ人はグレコバクトリア王国を滅ぼした遊牧民

紀元前129年頃、前漢の張騫がこの地を訪れその様子を見聞した。当時は「大月氏」が「大夏」を服属させた国となっていた。

一方、舎衛(しゃえ)について
インドのガンジス川中流のコーサラ国の王都である舎衛城(しゃえいじょう、シュラーヴァスティーのこと。

釈迦が存命のころ舎衛城の南には祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)があったとされる。
旧唐書の南蛮伝の墮和羅の条にてドヴァーラヴァティーが640年と649年、唐に遣使をしている。この時期の漂流の記録と一致するとされる。
↓トハラ国人について紹介した回(上記と同じリンク先)

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このあたりの地方の歴史と日本人とは仏教以外に関係はあるのかといえば、遺伝子レベルで相当な関りがある。

ミトコンドリア、母系遺伝子に着目した遺伝子解析結果によるハプログループD着目すると、その遺伝子が類似するのは

チベット
・インド北東部
アンダマン諸島
日本(大和民族琉球民族アイヌ民族

で高頻度の地域とされる。
↓は古代史とハプログループDについて取り上げた回(上記と同じリンク先)

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西域に渡った玄奘は弟子を通して日本とも関わりがある。

玄奘と道昭

玄奘は中国・唐代の中国の訳経僧602年~ 664年の人物。
629年、
シルクロードの陸路でインドへ向う。
そしてナーランダ僧院などへ巡礼、仏教の研究を行った。
645年には帰還。
経典657部や仏像などを持ちかえったとされる。
インドへの旅を地誌「
大唐西域記」として著した。
西遊記」は大唐西域記をもとに16世紀に生まれたフィクション。

↓は玄奘について取り上げた回

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道昭(629年~700年)河内国丹比郡(現・大阪府堺市・船連(ふねのむらじ)出身の法相宗の僧。

中国に渡り、玄奘三蔵に師事したとされる。
653年の第二回遣唐使の使者として入唐した。
道昭の弟子が行基
↓は行基について取り上げた回

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↓は行基の父や祖父について取り上げた回

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道昭の出自について。

■船氏と高志

この道昭の父は船恵尺。

船恵尺は乙巳の変で、蘇我蝦夷が自害した際、火中から国記を持ち出したとされる。

↓は道昭について取り上げた回

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船王後(ふねのおうご)は関連氏族か。

船氏王後墓誌によると船王後の死没年は642年、墓誌が造られた年代は668年頃、あるいはもう少しあとともみられる。

一方、船恵尺は船氏ののち、連になったという。

↓は船氏王後墓誌について取り上げた回

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では、船氏王後はどのような出自か。

船氏王後墓誌によれば船氏王後は王智仁(王辰爾)の孫で、那沛故の子という。

王智仁(王辰爾)は飛鳥時代の人物で船氏の祖とされる。

第16代百済王・辰斯王(在位:385年~ 392年)の子である辰孫王(生没年で356年~不明)の後裔。

父は塩君または午定君の子とされる。

なお、道昭の弟子が行基である。道昭に関連する船氏、行基に関連する高志からユダヤ敎と関連が深いのではと推測できる。

まず、船王後の家族関係の人物の名前をみると、アーリア、タナハ、十字、トーラーなどからネーミングしたのではと推測される人物がいる。

一方、行基の祖先は高志(こし)とされる。
行基の父は名前は羊。
祖父の蜂田虎身。

羊はユダヤ教と関連の深い言葉である。
一方、虎身はミトラス敎のミトラ神から名づけたのではないか(あるいはトーラーのトラから名づけたとも考えられるか)と推測できる。

道昭や行基は日本国の仏教を広めた人物。
その祖は朝鮮半島、さらに遡れば中央アジアに行きつく人物なのだろう。

■栃木県宇都宮市の大谷寺とバーミヤン石仏

栃木県宇都宮市の大谷寺はバーミヤン石仏との共通点が見られる。

実際はアフガニスタンの僧侶が彫刻したものと考えられているという。

大谷石の巨大な石窟の壁にレリーフ状に仏が彫られている。
その数は全部で10体とされる。
珍しい技法とされ、彫った岩壁面に粘土を着せている。

平安時代中期~鎌倉時代の8世紀~12世紀初頭の製作と推定されている。

・千手観音像や伝薬師三尊像
・伝釈迦三尊像
・伝阿弥陀三尊像

という順で製作されたと考えられている。

↓大谷寺の大谷磨崖仏(おおやまがいぶつ)について取り上げた回

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以上のように歴史を大局的にみれば、仏教の発祥の地インドから、アレクサンダー大王の東征を経て、ギリシャ人、ペルシャ人などとの文化と混じってオリエント文化を形成していく。

東アジアとのつながりは玄奘が西域を訪ねたことを思えば、インドから中央アジアへ、そして中国や高句麗、そしてその後に百済、日本へと到達したことがわかるだろう。なお、中国への仏教の伝来は最も早い説では西暦67年後漢の永平10年(西暦67年)、明帝と洛陽白馬寺に関する求法説話)とされる。

<参考>
バルフ - Wikipedia
インド・スキタイ王国 - Wikipedia
クシャーナ朝 - Wikipedia
中国の仏教 - Wikipedia