千葉県木更津市の金鈴塚古墳を取り上げる。また近隣のマリヤの地名が残る真里谷武田を紹介する。次の流れで紹介していく。
・千葉県木更津の金鈴塚古墳
・金鈴塚古墳の出土品
・被葬者
・馬来田
・真里谷
・上総国(かずさこく)
■千葉県木更津の金鈴塚古墳
所在は千葉県木更津市長須賀。
形式は前方後円墳。
大きさは墳長約100m。
築造は6世紀末~ 7世紀初頭とされる。
二重の周濠がある。
これを含めると全長約140mとなる。
埋葬は横穴式石室がある。
この石室は羨道(えんどう、せんどう)と石室の区別のない袖無し型。
※羨道:横穴式石室や横穴墓などの玄室と外部を結ぶ通路の部分のこと
組み合わせ式の石棺がある。また遺体は木棺に納められていたと考えられている。
石棺は緑泥片岩を用いている。
埼玉県・長瀞付近からの産出とされる。
荒川、東京湾を通じて運搬されたと考えられている。
一方、金鈴塚古墳の石室で使用された千葉県富津市から産出される砂岩が埼玉古墳群・将軍山古墳の横穴式石室に使用されているという。
↓はgooglemap、金鈴塚古墳
■金鈴塚古墳の出土品
特徴的なものとして
・金のすず:5点
・金銅透彫金具
・装飾付大刀:19点
などがある。
↓文化遺産オンライン、金鈴塚古墳出土品にて確認できる。
金のすずは1枚目、金銅透彫金具は3枚目の画像となっている。
↓千葉県、金鈴塚古墳出土品にて出土した大刀の画像が確認できる。
金鈴塚古墳の出土品は豊富とされる。
その理由として追葬があるという。
出土品からの時代推定では、少なくとも3つの時期に渡るとされる。
■被葬者
位置関係から被葬者は馬来田国造(うまくたのくにのみやつこ、まくたこくぞう)ではないかと考えられている。
■馬来田
馬来田について。馬来田駅の所在は千葉県木更津市真里。
■真里谷
千葉には「まりや」という地名が残る。
馬来田駅から7.1kmほどの場所に真里谷城がある。
真里谷城は「まりやつじょう」と読む。
千葉県木更津市真里谷にあった日本の城。
上総武田氏の祖、武田信長が築城したとされる。
武田信長は室町時代中期の武将、甲斐における国人領主。
築城年は1456年頃。
この武田信長の孫である武田信興が真里谷城に本拠地を構え、姓を「真里谷」に改めたという。
旧・上総国に属する地域である。
↓はwikipedia、真里谷城
続いて上総国とは。
■上総国(かずさこく)
千葉県中央部に位置。
807年に成立した古語拾遺より捄国(ふさのくに)から分立したとされる。
また、帝王編年記(成立は1364年~1380年の頃)では上総国の成立を安閑天皇元年の534年とする。
藤原京から出土の木簡に「己亥年(699年)十月上捄国阿波評松里□」※□は欠損している文字がある。
7世紀末には「上捄」の表記であったと推測されている。
一方で704年(大宝4年)の諸国印鋳造時に「上総」に改められた。
上総は古くは「かみつふさ」、やがて「かづさ」へと転じていったとされる。
千葉にはどのような人びとが渡来していたか。
・海保大塚(かいほおおつか)古墳は千葉県市原市海保、築造が4世紀末の六角墳。
↓六角墳と八角墳の築造年代を扱った回にて海保大塚古墳を紹介
・蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)の所在は千葉県千葉市中央区蘇我。
↓蘇我比咩神社を扱った回、ヤマトタケルの東征時、ソガヒメが流れ着いたとされる地
木更津市の高部30号、32号墳は関東最古級の前方後円墳。
出土した土器から伊勢湾岸など東海からの影響がみられる。
築造は3世紀前半にまでさかのぼる可能性があるとされる古墳。
仮に3世紀前半とすると、ヤマトタケル東征前にはこれらの古墳は築造されていたと考えられる。
↓木更津市の高部30号、32号墳を扱った回
下記はエリアが違うが静岡県沼津市の高尾山古墳、形式は前方後円墳。築造は西暦230年頃(250年説も)とされる。この時代から太平洋側に、おそらく海洋ルートで渡来していることは確実。
↓沼津市の高尾山古墳を扱った回
今回は金鈴塚古墳、そして応仁の乱頃のマリヤの地名を取り上げた。
千葉には古い民族の信仰が眠っているように思う。
<参考>
・金鈴塚古墳 - Wikipedia
・真里谷城 - Wikipedia
・真里谷信興 - Wikipedia
・上総国 - Wikipedia