シン・ニホンシ

日本の歴史を新しい視点でとらえ、検証し、新しい未来を考える

356.マイム・マイムと救いの井戸

今回は「マイム・マイム」について取り上げる。これによって日本の古代において何が起きていたかの理解を深める手がかりとする。次の流れで紹介していく。

フォークダンスとしてのマイム・マイム
・マイム・マイム(Mayim Mayim)
旧約聖書と救いの井戸
・籠神社(このじんじゃ)について

フォークダンスとしてのマイム・マイム
個人的にはマイム・マイムというとCMソングを思い浮かべるが、日本においては戦後、日本の小学校などでフォークダンスとして取り入れられた。

↓はYOUTUBE 日本コロンビア・フォークダンス・マイムマイム

www.youtube.com

■マイム・マイム(Mayim Mayim)
イスラエルの楽曲。
開拓地で水を掘りあてて喜ぶさまを歌ったものとされる。

原曲は1942年、エマヌエル・アミランが劇のために作曲した楽曲とされる。
踊りは1937年、エルス・ダブロン が振付けたものとされる。

旧約聖書と救いの井戸
マイム・マイムは旧約聖書が元になっている。

イザヤ書第12章第3節。
あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ
(ウシャヴテム マイム ベサソン ミーマァイェネー ハーイェシュア)
が歌詞の元になっているとされる。

「マイム」とはヘブライ語で「水」、「ベサソン」は「喜びのうちに」を表し、「マイム ベサソン」で開拓者が水を掘りあてて喜ぶさまを表すという。

キリスト教からすれば「救いの井戸」を「救い主=キリスト」のメタファーであると解釈される。

■籠神社(このじんじゃ)について

過去記事でも取り上げた籠神社(このじんじゃ)について。

天の眞名井、そして水、邊津鏡、息津鏡などが古代のイスラエルと関連するように思う。
また相殿神天之水分神(あめのみくまりのかみ)は水を分配する神。
未開の地に水を引く開拓者のイメージと一致する。
↓は籠神社について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

古事記イザナギの禊で生まれる12神の箇所、オキツとヘツの神が登場する箇所に隠れメッセージがあることを発見、紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

<参考>
マイム・マイム - Wikipedia

355.プロビデンスの目とアメリカの1ドル札と野口英世の千円札

今回も西洋。キリスト教に由来の雑学、「プロビデンスの目」について、次の流れで紹介していく。

アメリカの1ドル札
野口英世の千円札と富士山
プロビデンスの目

アメリカの1ドル札

アメリカの1ドル紙幣は1935年に採用されたものである。
アメリカの初代大統領、ジョージ・ワシントン肖像画が描かれている。
また、紙幣の裏側にはピラミッドに目が描かれている。
プロビデンスの目」とされる。これについては後述する。

またその目の上部に「Annuit Coeptis」という文字がある。
これは「神はわれわれの取り組みを支持し給う」という意味とされる。

さらにピラミッドの最下段にローマ数字で「MDCCLXXVI」がみられる。
これは1776年を表す。
また、これと「NOVUS ORDO SECLORUM」という文字がみられ、「時代の新しい秩序」の意味とされる。
wikipediaアメリカの1ドル札

ja.wikipedia.org

野口英世の千円札と富士山

2024年3月現在。
2024年7月3日から新しいお札(紙幣)が発行される。
新1万円札は渋沢栄一
新5千円札は津田梅子。
新千円札は北里柴三郎
↓は国立印刷局、新しい日本銀行券特設サイト

www.npb.go.jp

現在の千円札は野口英世である。

平成16年(2004年)11月1日 から発行された。
この千円札についてもプロビデンスの目が採用されていると考えられる。

「すかし(薄くする)」の技術を利用している。

野口英世の左目(紙幣上の見た目は右側)の部分に対し、お札をすかすと裏側に富士山の山頂の三角の部分が現れる。

これがプロビデンスの目に該当すると考えられる。

イデアとして、あるいは偽造防止技術としての智慧の披露という意味合いもあるのではないだろうか。

ちなみに、お札に古代の愛国心を想起するような人物が使われなくなった理由を過去記事にて紹介した。
↓戦後、愛国心を失った日本

shinnihon.hatenablog.com

プロビデンスの目
プロビデンスの目とは何か。

プロビデンスの目はキリスト教における意匠。
プロビデンス」の意味は「キリスト教の摂理」。
英語ではEye of Providenceで、神の全能の目(all-seeing eye of God)を意味する。

三位一体の象徴として中世からルネサンスにかけて以降で用いられた。
三位一体の象徴である三角形、光背と組み合わせて用いられることが多い。

今回、プロビデンスの目を取り上げ、由来がキリスト教、中世以降にあることを紹介した。

354.真野20号墳・金銅製双魚袋金具と鴨稲荷山古墳・双魚佩とイクトゥス

過去記事にてインドのアヨーディヤーに双魚文様がみられることを紹介した。今回は「双魚」をテーマとし、真野20号墳から出土の金銅製双魚袋金具、そして鴨稲荷山古墳から出土した双魚を取り上げる。次の流れで紹介していく。

首露王(しゅろおう)の妃とインドのつながり
福島県・真野20号墳の金銅製双魚袋金具
・イクトゥスはギリシャ語の魚から
・鴨稲荷山古墳と双魚佩(そうぎょはい)

首露王(しゅろおう)の妃とインドのつながり

首露王金官加羅国の始祖とされる人物。

その妃は許黄玉(きょ こうぎょく)
阿踰陀(あゆだ)国の王女とされる。

阿踰陀国の候補はいくつかある。
インドの
アヨーディヤーの建築の紋章と首露王陵の正門の大梁に刻まれた双魚文様が同じである。このためアヨーディヤーとする説が最有力とされる。
↓は金官伽耶の王を紹介する中で双魚文様が登場した

shinnihon.hatenablog.com

福島県・真野20号墳の金銅製双魚袋金具

福島県南相馬市鹿島区に所在する真野20号墳から金銅製の双魚の金具が出土している。

真野古墳群(まのこふんぐん)について。
所在は福島県南相馬市鹿島区寺内・小池。

前方後円墳と多数の小円墳で構成される。
築造は5世紀から6世紀とされる。
ほとんどが直径10mほどの小型の円墳とされる。
有名なのは20号墳、49号墳とされる。

・20号墳:
 形式は前方後円墳
 大きさは墳丘長28.5m。
 周濠を持つ。
 くびれ部に横穴式石室を模して造られたと推測される礫槨がある。
 直刀、鉄剣、馬具、金銅装双魚佩が出土。

・49号墳:
 形式は円墳
 大きさは径21m。
 礫槨内から斧、鎌、槽などの石製模造品が出土。

↓は文化遺産オンライン、真野20号墳出土の金銅製双魚袋金具

bunka.nii.ac.jp

↓は文化遺産オンライン、真野古墳群

bunka.nii.ac.jp

■イクトゥスはギリシャ語の魚から

この5世紀から6世紀代の「双魚」について。
ギリシャ語に魚を意味する「イクトゥス」がある。
スペルは「ichthys」あるいは「ichtus」とされる。
ギリシャ語では「ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ」で、「イエス、キリスト、神の、子、救世主」の頭文字を並べたものにあたる。

キリスト教の初期においては信仰を公にできなかったとされる。
このためキリスト教において、教徒が隠れシンボルとして用いたようだ。

片方が魚の弧の方側を描き、もう片方が反対の弧を描くことで共通の信仰を確かめたようだ。

キリスト教に対する弾圧の状況が変わっていったのはミラノ勅令後。
313年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(西方正帝)とリキニウス(東方正帝)が連名で発布。これ以降でやがてキリスト教の信仰が認められるようになっていった。

■鴨稲荷山古墳と双魚佩(そうぎょはい)
鴨稲荷山古墳の所在は滋賀県高島市鴨。

形式は前方後円墳
築造は6世紀前半。
大きさは推定50m。
刳抜式家形石棺がある。
出土品は多くの副葬品がみられ、金銅冠、環頭大刀、金製耳飾、魚佩など、地方豪族にしては豪華すぎるとされる。
↓はgooglemap、鴨稲荷山古墳

maps.app.goo.gl

↓はYOUTUBE、高島歴史民俗資料館の鴨稲荷山古墳、被葬者の状況が確認でき、双魚佩の形も確認できる

www.youtube.com

↓は日経オンラインでの鴨稲荷山古墳の紹介記事、復元された副葬品の豪華さは圧巻

www.nikkei.com

鴨稲荷山古墳の被葬者はこの地で生まれたとされる第26代・継体天皇を支えたとされる
三尾君首長、あるいは継体天皇の皇子(大郎皇子)ではないかと推定されている。

三尾君首長と継体天皇とのつながりについて。

彦主人王(ひこうしのおう)が三尾氏一族の振媛(ふるひめ)と結婚。
その間に男大迹王(ヲホドノオウ、継体天皇をもうけたとされる。

上記の動画の中で中国北方系の短剣の鋳型(双環柄頭短剣鋳型)が出土していることが紹介されている。古代史における三尾氏の重要性が増しているとされる。

↓にて三尾氏の出自に関しての紹介がみられる。

『福井県史』通史編1 原始・古代

<参考>
福島県文化振興財団 真野古墳群A地区20号墳出土金銅製双魚佩(甲)の復元製作1
イクトゥス - Wikipedia
ミラノ勅令 - Wikipedia

353.埴製枕(はにせいまくら)が出土した5つの古墳

過去記事にて石枕が出土した古墳を取り上げ、石枕と創世記との関係を示した。今回はその枕の材質が石ではない土製の「埴製枕(はにせいまくら)」が出土した古墳を扱う。次の流れで紹介していく。

・埴製枕(はにせいまくら)が出土した古墳
・産土山古墳京都府
・青山遺跡大阪府
・おじょか古墳三重県
・燈籠山古墳(とうろうやまこふん)(奈良県
・五条猫塚古墳奈良県
・まとめ

■埴製枕(はにせいまくら)が出土した古墳
出土例は少ない。

以下の5つの古墳で埴製枕の出土がみられる。

・産土山古墳(京都府
・青山遺跡(大阪府
・おじょか古墳(三重県
・燈籠山古墳(奈良県
・五条猫塚古墳(奈良県

■産土山古墳京都府
所在は京都府京丹後市丹後町竹野。
形式は円墳。
築造は5世紀中頃。
大きさは直径54m。
長持形石棺がある。
出土品に
・埴製枕
・環頭刀子
・直刀
・鹿角装剣
・銅鏡
・勾玉
・玉類
・鉄鏃
・短甲
・木櫛
・木弓
・円筒埴輪
など

■青山遺跡大阪府
所在は大阪府藤井寺市
青山遺跡の竪穴住居跡の床面から出土したとする。

青山遺跡がどこかを明確に特定できなかった。

近隣に関連する古代の情報として下記の「はさみやま遺跡」「藤井寺市道明寺」「青山古墳」を紹介、古来からどのような土地であったかを示す。

・はさみやま遺跡

大阪府藤井寺市に所在する後期旧石器時代から近世にかけての複合遺跡。

多くは奈良・平安時代の遺構。

このほか2万2000年前に遡る日本列島最古級の旧石器時代の竪穴建物跡が検出されている。

約2万年前のナイフ形石器、翼状剥片、石核などが出土している。

参考:はさみ山遺跡 - Wikipedia

藤井寺市道明寺

古代豪族の土師氏と関連。
7世紀中葉に土師氏の氏寺として建立された土師寺を起源とする。

土師器を製作していたがのちに葬送を司る氏族とされた。
やがて「菅原」を名乗った。
菅原道真が有名。

この付近に土師氏の里村、古墳の築造センターのようなものがあったのではと考えられている。
↓は藤井寺市、土師の里ムラ

www.city.fujiidera.lg.jp

・青山古墳

青山古墳は青山2丁目の住宅地に所在。
形式は円墳。
築造は5世紀中葉。
大きさは径65m。
墳丘の周りに濠がある。

青山古墳を1号墳とし、青山2~6号墳を含めて青山古墳群とされる。
形式は前方後円墳が1基、方墳が4基である。

5世紀中葉から末葉にかけて築造されたと考えられている。

↓は藤井寺市、青山古墳

www.city.fujiidera.lg.jp

■おじょか古墳三重県
所在は三重県志摩市阿児町志島。

おじょか古墳は志島古墳群(しじまこふんぐん)のうちのひとつ。
三重県東部の海蔵寺東方の高台に所在する。

古墳群にはかつては13基以上が存在したとされる。

現存するのは4基(4号墳、9号墳、10号墳、11号墳)のみ。
うち4号墳と11号墳がの調査が行われている。

4基の中では11号墳がもっとも古いとされ、11号墳をおじょか古墳という。
おじょかの漢字は「王女丘」であるという。

11号墳:古墳形式は不明。
築造は5世紀中葉から後半頃。
横穴式石室がある。

出土として
・銅鏡
・玉類
・武器
・農具
・埴製枕
などがある。
埴製枕の出土はひじょうに珍しい。

ほか、
10号墳:築造は6世紀後半頃。
石室内に箱式石棺がある。
金糸や銅椀が出土。

4号墳:築造は7世紀前半頃。
玄室がある。

12号墳は消滅しているが、仿製五獣鏡が出土したという。

築造時期をまとめると
・11号墳:5世紀中葉から後半頃
・10号墳:6世紀後半頃
・4号墳:7世紀前半
となる。

11号墳から10号墳の間にかけての時期には、南方に前方後円墳が2基(泊古墳、鳶ヶ巣1号墳)などがあり、これらが築造されたのではとみる見解がみられる。

志摩国を支配した島津国造(しまづのくにのみやつこ、しまづこくぞう)と関りがあるのではとする説もみられる。
wikipedia、志島古墳群にて、埴製枕がみられる。形としては貝を想起する枕。

ja.wikipedia.org

↓はgooglemap、おじょか古墳

maps.app.goo.gl

■燈籠山古墳(とうろうやまこふん)(奈良県
所在は奈良県天理市中山町。
形式は前方後円墳
大きさは全長110m。
築造は4世紀前半。
墳丘は3段築成の可能性がある。
後円部に竪穴式石室の石材とみられる板石が多く出土している。
石材は大阪府柏原市徳島県で産出される石材とされる。
↓は古墳マップ、燈籠山古墳

kofun.info
↓はgooglemap、燈籠山古墳

maps.app.goo.gl

■五条猫塚古墳奈良県

五条猫塚古墳(ごじょうねこづかこふん)。
五条は五篠とも表記される。

所在は奈良県五條市西河内町

形式は方墳。
築造は5世紀前半。
大きさは1辺が27m。
竪穴式石室がある。
出土品に
・蒙古鉢形眉庇付冑
・金銅製透彫銙帯金具
・刀剣
・鉾
といった武人と思わしきもののほか、副葬品に鍛工具類がみられる。
・ヤットコ
・金鎚
・タガネ
・カナトコ
・砥石
などがみられ、全国的にみても出土例はめずらしいという。

眉庇付冑は3点出土しているという。
そのうちの一つは金銅製の「蒙古鉢形」。

蒙古(モンゴル)付近の冑と形式が類似、関連性があるのではとして「蒙古鉢形」と名付けられているという。

場所は大和と紀ノ川を仲介する場所であり、出土品には海外との関りがみられ、紀州や大陸との交流が指摘されている。
↓はgooglemap、五条猫塚古墳

maps.app.goo.gl

■まとめ
本テーマでは埴製枕(はにせいまくら)に着目。
古墳の築造順に紹介すると

・燈籠山古墳奈良県:4世紀前半
・五条猫塚古墳奈良県:5世紀前半
・産土山古墳京都府:5世紀中頃
・おじょか古墳三重県:5世紀中葉から後半頃

※年代不明な青山遺跡出土を除く。

である。よって出土するのは4世紀前半以降。

五条猫塚古墳(5世紀前半)ではモンゴルとの関連も想定される。モンゴルといえば相撲。野見宿禰(土師氏の祖)当麻蹴速の相撲の話とも関連があるのだろうか。

いずれにしても「はさみやま遺跡」で紹介したように大阪府藤井寺市は2万2千年以上も前の竪穴建物跡が検出されている土地。

今回取り上げた「埴製枕」について。
縄文人が大陸人と出会い、技術を取り入れながら発展していく過程において埴製枕が生まれていったのだろうか。

<参考>
志島古墳群 - Wikipedia
島津国造 - Wikipedia
五条猫塚古墳 - Wikipedia

352.事代主と綏靖天皇との関係

今回は事代主神(ことしろぬしのかみ)を取り上げる。その事代主神との関係性から綏靖天皇(別称は神渟名川耳尊)を調べる。次の流れで紹介していく。

事代主神
事代主神の子供
媛蹈鞴五十鈴媛命ヒメタタライスズヒメ
媛蹈鞴五十鈴媛命の名前について
・媛蹈鞴五十鈴媛の妹
・揖夜神社(いやじんじゃ、いふやじんじゃ)

事代主神
実在の人物。
ヤマトタケルに国譲りしたオオクニヌシの後頃の時代と思われる人物。

推定で西暦320年~350年くらいが生年となるような人物だろう。

古事記においては
大国主神
神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)
の子供とされている。

日本書紀では
大国主神
・高津姫神タギツヒメ多岐都比売命湍津姫命とも)
との子供とする。

宗像三女神のうちの一人のタギツヒメの子孫も想定される。

先代旧事本紀の中の天神本紀、地祇本紀などでは八重事代主、都味歯八重事代主という表記も見える。

八重はヤハエの隠喩表現、都味歯八重で「罪、ヤハエ」でキリストの隠喩表現と思われる。旧事紀の世界観の中では事代主は出雲かつ、キリスト教関連の人物である。

事代主神の子供
日本書紀では「事代主神」との間に
・三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ、陶津耳)の娘、玉櫛媛(たまくしひめ)との間に子が生まれた。
・その名は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と名付けたとされる。

一方、古事記ではどうか。
大物主神」が
・三嶋湟咋(みしまのみぞくい、陶津耳命の娘の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ、活玉依毘売との間に比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすずひめ)を生んだとする。

大物主神」自体は古代の「人物」ではなく三輪山の神として描かれている。

このあたりで事代主と大物主との関係性が不明となる。

媛蹈鞴五十鈴媛命ヒメタタライスズヒメ

配偶者に
神武天皇
手研耳命(たぎしみみのみこと)
がいたとされる。

日本書紀によれば手研耳命は神武東征に従ったとされる。
実在なら、手研耳命ヤマトタケルの東征に従った人物だろう。

媛蹈鞴五十鈴媛命の名前について
古事記によれば、はじめは
・富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)
であった。

しかしホトの名前を嫌って
比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)
に改めたとされる。

■媛蹈鞴五十鈴媛の妹
媛蹈鞴五十鈴媛命ヒメタタライスズヒメの妹は五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)

第2代天皇綏靖天皇別称は神渟名川耳尊、かんぬなかわみみのみこと)の配偶者とされる。

神武天皇崩御した際、手研耳命(たぎしみみのみこと)皇位に就く。
このため、
異母弟の
神八井耳命(かんやいみみのみこと)
そして
神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇
を殺害しようとしたとされる。

神八井耳命、神渟名川耳は手研耳命の陰謀を知っている。

そこで
・弓部稚彦に弓
・倭鍛部の天津真浦に鏃(やじり)
・矢部に箭(や)
を作らせた。

そして神渟名川耳が手研耳命を射て殺したとされる。

これにより、
・神渟名川耳が皇位に就く
・神八井耳は天皇を助け神祇を掌る
こととなったとされる。

■揖夜神社(いやじんじゃ、いふやじんじゃ)
所在は島根県松江市東出雲町揖屋

島根県美保関町には、事代主に関する言い伝えがある。

事代主は、対岸の揖夜(イヤ、イフヤ)の里の美保津姫のもとへ通っていた。

あるとき鶏が間違って真夜中に鳴いた。
事代主はうろたえ、小船に乗った。
櫂を岸に置き忘れてしまう。
そこで仕方なく手でかいた。
そのとき鰐に手を噛まれたとされる。

これに基づき、事代主が鶏を嫌うという言い伝えがあるとされる。

美保関から中海を渡った対岸に美保津姫を祀った揖夜神社がある。
↓はgooglemap、揖夜神社

maps.app.goo.gl

■まとめ
・事代主は大国主の息子とされる

・三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)と結婚

・その子供に媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)

媛蹈鞴五十鈴媛命の妹に五十鈴依媛命(イスズヨリヒメノミコト)がいる

・五十鈴依媛の夫は綏靖天皇、別称は神渟名川耳尊

神渟名川耳尊手研耳命(たぎしみみのみこと)を射た人物

手研耳命ヤマトタケルの東征に協力した人物のうちの一人と推定される

※蛇行剣出土の奈良・富雄丸山古墳は4世紀後半(300年代後半)、その手前あたりの頃の史実を象徴させたのが垂靖天皇なのだろう。

<参考>
意宇郡 - Wikipedia
手研耳命 - Wikipedia
神八井耳命 - Wikipedia

綏靖天皇 - Wikipedia
ヒメタタライスズヒメ - Wikipedia

五十鈴依媛命 - Wikipedia

351.古墳から出土の石枕と創世記との関係

垂仁元年に記述される「山辺道上陵」は当初、垂仁天皇(御間城天皇)の陵、「渋谷向山古墳」を候補地とされていた。しかしその後「景行天皇陵」と治定された古墳である。その渋谷向山古墳から出土した「石枕」をテーマとして紹介する。次の流れで紹介していく。
※いくつかの見解については文献や考古学的見地以外の私見を交える

・創世記と石枕の関係
・渋谷向山古墳から出土した石枕
・石枕の種類
・石枕造付石棺
・馬蹄形石枕
・石枕造付石棺のみられる古墳
・馬蹄形石枕のみられる古墳

■創世記と石枕の関係

創世記28章11節。
ヤコブが硬い石を枕にして眠るという記述がみられる。
やがてこの「石枕」が神と契約を結ぶための石となった。

世界史的にみて、これを根拠としユダヤ教徒において「石枕」を神聖なものとして扱われていったと推測される。

■渋谷向山古墳から出土した石枕

渋谷向山古墳の所在は奈良県天理市渋谷町。築造は4世紀中葉の321年から340年頃ではないかとされる。

この時期の年代はヤマトタケルの東征後、かつヤマトタケルの死亡後と思われる。
被葬者は東征の影響を受けているのではと推測される。

出土した石枕は碧玉製であるという。

碧玉はナフタリ族のシンボルの可能性あり。ただし碧玉は縄文人も好んで使用していた。
↓はwikipedia、渋谷向山古墳、碧玉製の石枕

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/0/0d/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%A4%A9%E7%90%86%E5%B8%82%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E7%9F%B3%E6%9E%95.JPG/300px-%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%A4%A9%E7%90%86%E5%B8%82%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E7%9F%B3%E6%9E%95.JPG

↓はwikipedia、渋谷向山古墳

ja.wikipedia.org

淡路からナフタリ族の指輪が出土している(学者が立ち会っていないので伝扱い)
↓は古事記のイヨのフタナジマについて紹介した回
shinnihon.hatenablog.com

↓はナフタリ族渡来後の淡路島の歴史

shinnihon.hatenablog.com

■石枕の種類
以下、wikipediaを出典とする。
石枕の種類としては大きく「石枕造付石棺」と「馬蹄形石枕」があるとされる。

■石枕造付石棺
石枕造付石棺は
・舟形石棺
・割竹形石棺
の床の部分に後頭部の形をした窪みをつけたもの。

4世紀から5世紀古墳時代前期から中期)の西日本の古墳に見られるという。

■馬蹄形石枕
馬蹄形石枕は滑石、砂岩、凝灰岩、蛇紋岩などの石、岩を加工、やや扁平な馬蹄形に整え、さらに中央を後頭部の形に窪ませたもの。

5世紀から6世紀古墳時代中期から後期)の東日本の古墳に多く見られるとされという。
特に常総(千葉県、茨城県の地域でよく出土するという。

古墳時代の後期に皇族の墓葬に用いられた六角墳が千葉では4世紀末(300年代後半)に登場する(海保大塚古墳)

千葉では伊都国からヤマト王権に従った将軍級の伊都許利(イツコリ)が派遣されている。東征後、やや時間をおいてからの派遣だったのだろうか。
↓は六角墳について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

千葉県の芝山古墳群の殿塚、姫塚は6世紀後半の造営とされる。
出土している武人埴輪の風貌がまさにユダヤ人である。
↓は千葉県芝山古墳群について紹介した回。

shinnihon.hatenablog.com

古墳時代の終末期。
世界規模の気候変動を受けて世界は人口が減少したことがわかっている。

535年から536年頃に発生した世界規模の火山の爆発は、当時朝鮮半島まで影響を及ぼした。天候不純やペストの発生で急激に人口が減少。
↓クラカタウおよびエルサルバドルの火山が爆発した可能性、ペストが流行した

shinnihon.hatenablog.com

仏教も渡来し、宗教観や墓葬も変化。衛生上の理由からも仏教、火葬の必要性が芽生えていく時代だろうか。

ユダヤ人の末裔の氏族にとっては、古墳時代後期はアニミズムとしての神道か、仏教でいくのか、選択の時期となっていたのだろう。

群馬の上野三碑などに記されている文字を読むとお坊さんとしてやっていく決意表明とも読み取れる文章も残っている。

↓群馬の多胡碑について紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

なお、茨城にも石枕がみられる。その理由とはなんだろうか。

月の国から太陽の登る東の国へ、朝日を求めて、日高見の国が最終目的地となったのだろう。

千葉や茨城は日本の東端にあたる。イザヤ書に記された、東の島々の国の最東端なのだろう。

■石枕造付石棺のみられる古墳

・三谷石舟古墳
所在は香川県高松市三谷町。
形状は前方後円墳
大きさは墳丘長88m。
墳丘周囲に盾形の基壇状の施設が巡らされているとされる。
これをあわせると101mとなる。

築造は古墳時代中期(5世紀)初頭。

「盾形」の意味について。
本古墳に限らず水を引いたかと思わしき形跡のある「環濠」をめぐらせた古墳がみられる。
これはどういう意味があるのか。
・未開の地に水を引き開墾するという意味
・王権を盾として守るという意味
この2つがあるように思う。

「未開の地に水を引く」については別テーマで紹介予定。

↓はwikipedia、三谷石舟古墳

ja.wikipedia.org

・磨臼山古墳(すりうすやまこふん)
所在は香川県善通寺市生野町
形状は前方後円墳
大きさは墳丘長49.2m。
築造は4世紀後半。

有岡古墳群のひとつとされる。

なお、もっとも築造の早い野田院古墳の形式は前方後円墳。築造は3世紀後半。
wikipedia、磨臼山古墳にて石枕の画像

ja.wikipedia.org

■馬蹄形石枕のみられる古墳

・上赤塚1号墳
所在は千葉県千葉市
形状は円墳。
大きさは直径31m。

出土品に石枕、立花、石製模造品、鉄製農工具、大刀、銅釧、勾玉、ガラス玉などがある。
5世紀のものとされる。
↓はwikipedia、上赤塚1号墳から出土の馬蹄形石枕

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・猫作・栗山古墳群第16号

猫作・栗山古墳群は総数56基で構成されている。

前方後円墳:3基
帆立貝形前方後円墳:7基
円墳:28基
方墳:18基
から成る。

第16号は円墳である。
大きさは直径22.8m~24.2m
築造時期は5世紀半ば頃。

墳頂部に埋葬施設が検出されている。
長さが6.6m×幅0.85m×深さ0.43mの木棺が納められていたと考えられている。

石枕は埋葬施設底面の両端近く、そして中央部に配置されていた。
 石枕の周辺から
 - 滑石製立花
 - 滑石製勾玉
 - 瑪瑙(めのう)製勾玉
 - 滑石製臼玉
 - 滑石製模造品
 - ガラス玉
などが大量に発見された。

立花は石枕の周囲に小さな穴がある。
その小さな穴に差し込んで立てる飾りとされる。

また中央の石枕付近では
 - 鉄剣
 - 鉄製刀子
が検出されている。
↓は千葉県、猫作・栗山古墳群第16号

www.pref.chiba.lg.jp

・石神2号墳
所在は千葉県千葉市
石神古墳群の第2支群の主墳。
計5基から構成される。

大円墳:1基
円墳:3基
方墳:1基

石神2号墳の形式は円墳。
大きさは直径25m。
周囲に約8.5mの周溝がある。

中央に割竹形木棺1基がある。
全長は6.8m、幅は0.75~0.85m。

棺内に石枕が2具みられる。

2人の死者が足先を棺の中央に向けていたとされる。

↓は国立歴史民俗博物館、石神2号墳
石神2号墳出土品 | khirin

そのほか、
・千葉県香取市、堀之内1号墳、堀之内3号墳

・千葉県香取市、大戸宮作1号墳

・千葉県香取市、山之辺手ひろがり遺跡3号墳

・千葉県市原市、姉崎二子塚古墳
築造は5世紀前半から中頃。
形式は前方後円墳
大きさは103mだが推定復元長は110m。
↓は姉崎二子塚古墳から出土の石枕

ja.wikipedia.org

常総地域の、石枕の加工方法に関する論文がみられる。

和歌山県有田市、椒古墳(はじかみこふん)
所在は和歌山県有田市初島町。
形状は前方後円墳
築造は5世紀中葉から後半。

被葬者は伝承としては長屋王(第40代・天武天皇の皇子の高市皇子の子とされる)
しかし長屋王の生没年は676年あるいは684年~729年。

続日本紀日本霊異記などで長屋王やこの古墳周辺地域にまつわるエピソードがあるようだ。

↓は文化遺産オンライン、和歌山県有田市 椒古墳出土、5~6世紀の石枕

bunka.nii.ac.jp

群馬県藤岡市、白石稲荷山古墳(しろいしいなりやまこふん)

所在は群馬県藤岡市白石。
形式は前方後円墳
大きさは墳丘長155m。
築造は5世紀初頭。
↓は白石稲荷山古墳出土の石枕

ja.wikipedia.org

山梨県甲府市、大丸山古墳(おおまるやまこふん)

所在は山梨県甲府市下曾根。
形式は前方後円墳
大きさは99m(または120mとも)
築造時期は4世紀中葉から後半頃。

東山地域には弥生時代後期後半から古墳時代前期前半にかけて方形周溝墓が築かれた上の平遺跡があるとされる。

突然前方後円墳が建設されたわけではなく、方形周溝墓の時代もあったことがわかる。
↓はwikipedia、大丸山古墳、石枕の画像あり

ja.wikipedia.org

奈良県斑鳩町、竜田御坊山3号墳
 琥珀製の枕がみつかっている。

熊本県宇土市、向野田古墳 

所在は熊本県宇土市松山町。
墳丘長は86m。
築造は4世紀後半。
まだ石枕に加工していない段階の石材が出土している。
被葬者は成人の女性が一人とされる。

■まとめ
・石枕は旧約聖書に出典のみられる、神との契約に関わるアイテム

・馬蹄形の石枕の出土が熊本の宇土(ウト)、奈良、和歌山、関東(群馬、茨城、千葉)でみられた

・石枕造付石棺の出土は香川でみられた

高い可能性で建国に協力したユダヤ人の渡来と関りがあるとみる。

本テーマでも熊本と関りがあることを確認できた。九州のヤマト国、ヒミコやトヨとの時代の中国の動乱や遣使に深いなぞが眠っているように思う

<参考>
石枕 - Wikipedia
三谷石舟古墳 - Wikipedia
基壇 - Wikipedia
磨臼山古墳 - Wikipedia
姉崎二子塚古墳 - Wikipedia
椒古墳 - Wikipedia

長屋王 - Wikipedia
白石稲荷山古墳 - Wikipedia

350.垂仁天皇①~阿羅斯等と比売語曽社~

第11代・垂仁天皇を紹介し、日本書紀に秘められた謎を明らかにしていく。次の流れで紹介していく。

・垂仁元年・山辺道上陵
・垂仁二年十月・纏向の都
・垂仁二年是歳・任那の国名の由来と新羅の争いの始まり
・垂仁二年是歳・都怒我阿羅斯等
・垂仁二年是歳・任那の国名の由来
・垂仁二年是歳・阿羅斯等と比売語曽社

■垂仁元年・山辺道上陵

日本書紀では
元年・十月、御間城天皇(みまきのすめらみこと)山辺道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)に葬られたとする。

宮内庁では渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)山辺道上陵であるとし、その被葬者は「景行天皇」と治定している。

山辺道上陵は4世紀中頃~4世紀後半の築造と推定されている。

経緯として
・1697年、江戸幕府がで崇神天皇景行天皇いずれかの陵であると比定
・その後の1864年、修陵の際に石枕が出土、景行天皇陵に改訂されていった。
という経緯がある
参考①:-天皇陵-景行天皇 山邊道上陵(けいこうてんのう やまのべのみちのえのみささぎ)
参考②:渋谷向山古墳 - Wikipedia

■垂仁二年十月・纏向の都

日本書紀では
垂仁・二年十月にて、
纏向に都をつくる。
これを珠城宮という。

としている。

纏向の古代都市について。
いつ頃建設されたか。

桃の種が出土しており、これからは推定西暦135年~230年。
土器の付着物からは推定西暦100~200年頃に存在していた可能性が示されている。

ヒミコの239年の遣使以前に奈良の土地に土木技術を持つ人びとがいたことになる。

↓纏向の古代都市から発掘物から推定年代を紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

↓は纏向型前方古墳を紹介、221年~240年にはつくられていた

shinnihon.hatenablog.com

■垂仁二年是歳・任那の国名の由来と新羅の争いの始まり

崇神天皇65年7月・任那から来朝していた蘇那曷叱知(そなかしち)であったが、是歳(ことし)、「国へ還る」と言った。

蘇那曷叱知に赤絹100匹を持たせ、任那王へ賜ることとなった。

帰国の際に天皇から任那王へ赤絹100匹が贈られた。
しかし、新羅に奪われたという。
これを原因とし、任那新羅の争いが始まったとされる。

新羅が物を奪う話は
・垂仁二年是歳 のほか
神功皇后47年4月条
・応神14年是歳条
にもみられる。

↓は蘇那曷叱知(そなかしち)について取り上げた回

shinnihon.hatenablog.com

■垂仁二年是歳・都怒我阿羅斯等

蘇那曷叱知の紹介のあと、一(ある)にいわく、で都怒我阿羅斯等が紹介される。

このため、都怒我阿羅斯等は蘇那曷叱知ではないかとする説もみられる。

その内容とは。

御間城天皇(みまきのすめらみこと、崇神天皇のこと)の御世。
額に角有る人が船に乗り越国(こしのくに)、笥飯浦(けひのうら)に泊まった。
そこを名付けて角鹿(つぬが)という。

いづれの国の人か」と問うと、
「意富加羅(おおからのくに)の王の子。
名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
またの名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)
日本国(やまとのくに)に聖皇(ひじりのきみ)がいると聞いてやって来たという。

穴門(あなと、長門国の西南部の古称。関門海峡付近と考えられる)に至る時。
その国に人がいた。
名は伊都都比古(いつつひこ)

伊都都比古はいう。
(われ)はこの国の王(きみ)なり。
吾をおいてふたりの王はいない。
ゆえに他のところに行きなさい。

しかしその人となりをみるに王ではないと知った。
そして出雲の国を経て、ここに至った。

このとき崇神天皇(すじんてんのう、みまきいりびこ)崩御にあった。
そして活目天皇(いくめのすめらみこと、垂仁)に仕えて三年(みとせ)に逮(な)ったという。

ここまでを整理。

・蘇那曷叱知と都怒我阿羅斯等は同じ人物では
・伊都都比古は穴門の王(当然、豊前も含む)
・伊都都比古は伊都国(イト国)の象徴か
・伊都都比古は日本の王ではないことを記す
・都怒我阿羅斯等は意富加羅(おおからこく)の子
・意富は「おお」と読むが、イトとも読め、伊都国と加羅国はつながりがあった可能性が高い(イト国とは実際は豊前の秦王国のことである)
・都怒我阿羅斯等は活目天皇(御間城入彦)に三年仕えた(つかまっていた?)

■垂仁二年是歳・任那の国名の由来

天皇都怒我阿羅斯等に問う。
「汝は国に帰りたいと思うか」
都怒我阿羅斯等は「願わくば」と答えた。

そして垂仁は言う。

汝は道に迷わず早く来ていれば先の皇(みかど)に仕えていただろう。
これをもって汝のもとの国の名前を改め、御間城天皇(みまきのすめらみこと)の御名(みな)をとって汝の国の名前とせよ」と。

これより赤織(あかおり)の絹を阿羅斯等に賜り国に返した。
その国を弥摩那(みまな)というのはこれゆえである。

そして阿羅斯等は絹を持って国の郡府におさめた。
新羅の人が兵(いくさ)を起こし赤絹を奪った。
これが新羅任那がうらむ原因となった。

■垂仁二年是歳・阿羅斯等と比売語曽社

あるにいわく。
都怒我阿羅斯等が自国任那にいたときのこと。
黄牛(あめうじ)に農具を背負わせていたときのこと。
黄牛がいなくなってしまう。

そしてある(むら)にとどまっていたときのこと。
阿羅斯等はある老夫(おきな)に会う。
老夫がいうには牛はこの群家の中にいるという。
そして牛を食べてしまったという。
老夫は阿羅斯等に次のアドバイスをする。

郡公らが来て「牛の直(あたい)は何物(なに)を得たいのか」と問われれば、「郡内(むら)の祭(いわ)いまつる神を得たい」と言いなさい。
阿羅斯等は老父(おきな)の教えに従った。

その祭る神とは。
「白い石」であった。
白い石を牛の直(あたい)に授け、寝(ねや)の中に置いた。

その神石(いし)は美麗(かほよ)童女(おとめ)となった。
ここに阿羅斯等は喜んでまぐわいをしようとした。
しかし童女は消えていなくなった。

阿羅斯等は妻に問う。
童女はどこにいったのだ」と。
妻に答える。
「東(ひむがし)の方(かた)に向(い)にき」。
阿羅斯等は童女を求め、遠く海を渡り、日本国(やまとのくに)に入る。

童女は難波(なにわ)、または豊国(とよくに)の国前郡(みちのくちのくに)に至りにいたって、比売語曽社(ひめごそのやしろ)の神となったとされる。

日本書紀の阿羅斯等の牛に関する話と極めて類似する話が古事記の応神紀・天之日矛にみられる。このとき阿加流比売神天之日矛の妻となる。
阿加流比売神は名前に「赤ルビー」が挿入されている。
※アカルヒメは単に太陽信仰、日の光を示した名前であったかもしれない。あるいは真偽不明・氏族と宝石の関係は諸説あるが、もしユダヤ人と関連があった場合は赤メノウ、ユダ族の可能性(?)

以上をまとめると次のようになる。

阿羅斯等は牛に関する信仰を持つ祭祀を行う直(あたい)

意富加羅国の王子であった。
額に角のある物(ヒラクティーの可能性)をつけた安羅国アッラーを信じる宗教を持つ)使徒では。
妻から東の国に関する情報を入手。
アラシトはやまとの国へと入る。
豊前難波のつながりを比売語曽社を通じて記している。

<参考>
大分県比売語曽社 - Wikipedia
・大阪:比売許曽神社 - Wikipedia

349.任那(ミマナ)と崇神天皇・御間城入彦(ミマキイリヒコ)

任那(ミマナ)や第10代・崇神天皇を紹介し、日本書紀に秘められた謎を明らかにしていく。次の流れで紹介していく。

任那(ミマナ)
・額角有人とツヌガアラシト
・安羅(あら)
崇神天皇(すじんてんのう)
・御間城尊の兄・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)
・御間城尊の妻と子供
・即位10年9月・四道将軍
・即位10年9月・御真木入日子はや
・即位10年9月の倭迹迹日百襲姫命大物主神
・即位65年7月の蘇那曷叱知(そなかしち)の派遣

任那(ミマナ)
不明~562年まで存在したとされる朝鮮半島における地名。
広開土王碑、日本書紀任那(ミマナ)に関する記述がみられ実在する。
伽耶」と同等、あるいは包含関係にある地名か。

↓では任那復興会議を取り上げた

shinnihon.hatenablog.com

↓では百済が475年に一時的に滅亡、任那の久麻那利(熊津)を譲った件を取り上げた

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■額角有人とツヌガアラシト
日本書紀」で伝わる古代朝鮮の人物。

都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)とも。
福井県の「敦賀市」にも関連する加羅国の王子とされる。

日本書紀」の垂仁の条にて、

「御間城天皇の世に、額に角のある人が一つの船に乗って、越国の笥飯の浦に着いた。ゆえに、そこを名づけて角鹿という。」

とある。

漢文の原文をたどると「額角有人」とある。
(ひたい)に「角(つの、または、かど)」のあるものをつけた人となっている。

↓牛をテーマとした回にて都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)を紹介

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頭ではなくわざわざ「額」と記している。

額につける角のあるものとは何か。

のちの修験道・山伏の頭巾(ときん)ユダヤ教のヒラクティーが一致する。
また山伏が利用した角笛ことショーファーについて。

長崎県対馬市峰町三根サカドウから角形金具が出土している。
リコーダーに似た穴が先端と後部に空いているため笛と思われる。
弥生時代の後期、1世紀~3世紀のものである。

↓サカドウ遺跡から出土の角形金具

webarchives.tnm.jp

↓は頭襟(ときん)、天狗と頭襟の関連性は、まだ縄文人ペルシャ人の混血が進んでいなかったためだろう
ja.wikipedia.org
↓はショーファー

ja.wikipedia.org

都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)。
それは額に角のあるものをつけた安羅からやってきた使徒だったのかもしれない。

■安羅(あら)

安羅は3世紀から6世紀中頃にかけて現在の韓国の咸安郡に存在していた国。
任那伽耶を構成する国の1つ。

国名からしアッラーヤハウェに由来すると考えられる。
伽耶は古代のインドの言葉gayaからとっていると思われる。
淡路(あわじ)もアワドアヨーディヤーから来ていると思われる。

淡路からはイスラエルの古代祭祀遺跡、製鉄遺跡、銅鐸、そして「伝」扱いだがナフタリ族の指輪が出土している。
↓gayaについて紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

↓ナフタリ族とフタナジマについて紹介した回

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崇神天皇(すじんてんのう)

第10代天皇
諱は御間城尊(ミマキノミコト)

日本書紀では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)
史実性のあると人物考えられている。

紀元前148年~紀元前30年と設定されている。
ただし実在なら3世紀後半から4世紀前半頃の人物と推定されている。

崇神天皇の父は開化天皇である。
一方、母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)
伊香色謎命物部氏の遠祖、大綜麻杵命(おおへそき)の娘。
御間城尊の異父の兄に「彦太忍信命磐之媛の祖)」がいる。

御間城入彦五十瓊殖の名前の「五十瓊殖」について。

五十はイソとも読む。
殖は「ゑ」。
あわせると本来は五十瓊殖は「イソニエ」であった可能性も。
↓はwikipedia崇神天皇

ja.wikipedia.org

■御間城尊の兄・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)

日本書紀では「彦太忍信命」。
古事記では「比古布都押之信命」。

とされる。

彦太忍信命孝元天皇(第8代)の皇子。
彦太忍信命は「武内宿禰」の父または祖父とされる。

↓は武内宿禰について扱った回、朝鮮半島紀伊国と関りが深い設定のある人物

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■御間城尊の妻と子供
御間城尊は御間城姫と結婚、皇后とした。

子供には
・活目尊(後の垂仁天皇
・倭彦命(やまとひこのみこと)
らがいる。

■即位10年9月の四道将軍
四道将軍はわざうたの直前に登場する。

四つの道、北陸、東海、西道、丹波の将軍を遣わす内容にて登場。

・北陸:大彦命
・西道:吉備津彦命
丹波丹波道主命
・東海:武渟川別

とされる。

古い時代の道の整備を示したほか、一方で古代の墳丘墓や方形周溝墓、四隅突出型墳丘墓などの建設を暗示していた可能性もあるとみる。

↓四隅に関する陰陽道との関係を示唆した回

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■即位10年9月の御真木入日子はや
即位10年9月に次の童歌(わざうた)が残る。

建波邇安王(たけはにやすのみこ)の反乱を少女が次のように予言する。

御真木入日子(みまきいりびこ)はや
御真木入日子 はや
(おの)が緒を
窃み弑(し)せむと
後つ戸(しりつと)よ い行き違(たが)
前つ戸(まへつと)よ い行き違(たが)
(うかか)はく 
知らにと
御真木入日子はや

大毘古命が少女に問う。

「汝がいうことは、何のことだ」と。

すると少女は答える。

(あ、わたし)は何も言っていない。
ただ歌詠み(うたよみ)をしているだけだ。
と。

「はや」とは何か。
「はや」を転置すると「やは(ヤハ)」となる。

↓はわざうたを紹介した回で 御真木入日子はや を紹介

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■即位10年9月の倭迹迹日百襲姫命大物主神

即位10年9月では重要な事項が立て続けに登場する。

倭迹迹日百襲姫命大物主神の妻となる。

そしていくつかの出来事を紹介した後、

(はし)に陰(ほと)をつきて薨(かむさ)りする。
そしてのちにその墓をなづけて「箸墓(はしのみはか)」といったとする。

箸墓古墳の所在は奈良県桜井市箸中。
築造は241年~260年頃とされる。

ちなみにヒミコ(日向)には弟にオオヒノミコト(大日之命)がいたとされる。
このあたりの人物名がうまく切り取られ、日本書紀では奈良の王朝が続いていているように描かれている。

ヒミコは九州の人物。
奈良ではない。
少なくとも魏志倭人伝の時代の邪馬台国は九州のヤマト国。
のちにヤマトタケルが東征後(おそらくペルシャ人を従えて)、奈良の大和国が徐々に建国されていった。

↓は九州のヒミコとオオヒノミコトについて紹介した回

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■即位65年7月の蘇那曷叱知(そなかしち)の派遣
任那国が蘇那曷叱知を派遣、朝貢した。

任那筑紫国から二千余里、海を隔てて鶏林(しらき)の西南にあり。

そして天皇は68年冬十二月に崩御

日本書紀第五巻が終わるが、蘇那曷叱知の話は垂仁天皇へと続く。

↓は蘇那曷叱知(そなかしち)について扱った回

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<参考>
崇神天皇 - Wikipedia
彦太忍信命 - Wikipedia
伊香色謎命 - Wikipedia
大綜麻杵命 - Wikipedia
蘇那曷叱知 - Wikipedia

348.昔于老(せきうろう)と于道朱君と蘇那曷叱知(そなかしち)

前回、新羅をテーマとし、微叱己知波珍干岐と葛城襲津彦を紹介した。その中で倭国と関連し新羅の王・宇流助富利智干が登場した。今回は前回と類似するテーマであるが朝鮮半島史からの視点で倭国とのつながりのある昔于老、于道朱君、蘇那曷叱知の3人の人物を取り上げる。次の流れで紹介していく。

・昔于老(せきうろう)
・昔于老の事績
・昔于老と葛那古
・于道朱君
・蘇那曷叱知(そなかしち)

■昔于老(せきうろう)
古代の新羅倭国と関連するとされる人物。
三国史記(1145年完成)に登場。
昔于老は新羅の高級官僚で軍人であったという。

時代は不明~253年頃の人物とされる。

どのような人物であったか。

つぎの2つの説がみられる。

1つは新羅の第10代王、奈解尼師今(なかいにしきん、在位:196年~230年)の長子。
このとき、弟に昔利音がいるとされている。

もう1つは昔水老の子であったのではないかとされる。
昔水老は1等官、角干(伊伐飡の別名)とされる。

■昔于老の事績
昔于老にどのような事績が残っているとされているか。
209年(奈解尼師今・14年)加羅が浦上八国(※1)より攻撃を受けた。
このとき加羅新羅に救援を求めた。
※1 浦上八国とは慶尚南道南西域の伽耶諸国

昔于老は弟の昔利音とともに加羅を救援する。
そして浦上八国の将軍を討ったとされる。

続いて231年(助賁尼師今・2年7月)
昔于老は2等官・伊飡の位で大将軍となる。
そして甘文国慶尚北道金泉市の討伐を行う。

233年の5月。
新羅倭人の侵攻を受ける。
同233年7月、倭人が侵攻する。
于老は沙道慶尚北道浦項市で迎え撃ち、倭人を壊滅させた。
昔于老その功績により244年に1等官・舒弗邯に昇格。
軍事統括を委任された。

245年。
高句麗が侵攻する。
昔于老が出撃。
しかし馬頭柵(京畿道抱川市)まで退却を余儀なくされた。

沾解尼師今(在位:247年 - 261年)の時代となる。
新羅の配下の沙梁伐国慶尚北道尚州市が反乱。
百済に帰順した。
このとき昔于老が沙梁伐国を討滅したとされる。

しかし新羅伽耶諸国の浦上八国を破ったという史実をみると、年代的に真興王(在位:540年~576年)時代ではないかという指摘がある。

■昔于老と葛那古
倭国の使者に「葛那古」という人物がいた。
昔于老が葛那古を接待したときのことである。
「汝の王を塩奴(※)にし、王妃を炊事婦にしよう」
そう戯れ(たわむれ)を言った。
※塩奴:潮汲みの人夫

これに対し倭王が激怒。
将軍の于道朱君を派遣、新羅に侵攻する。

于老は倭軍の陣におもむいて失言を詫びた。
しかし倭人は許さなかった。
于老は捕らえられ、焼き殺されてしまう。

そして于老の死後。
味鄒尼師今の時代になったとき。

倭国の大臣が新羅に訪れる。
于老の妻が怨みを晴らそうとした。

倭国の大臣を饗応したいと味鄒尼師今に願い出た。
壮士に命じ、大臣が泥酔したところを焼き殺したという。

これが原因となって倭人新羅の首都金城(慶州市)を攻撃した。
しかしその後退却したという。

■于道朱君
倭国新羅に派遣したときの将軍「于道朱君」について。
武内宿禰」ではないかという説がある。

于道朱君は、うぢすくん、うぢしゅくん。
武内宿禰は、たけうちすくね。しゅくん=すくね。

また、于道=うぢから転じて武内宿禰がほんとうは「宇治」の将軍であったのではないかという説も。

日本書記は720年に完成。
三国史記は1145年に完成したものである。

新羅が浦上八国の将軍を討ったとするのが真興王(在位:540年~576年)の時代の話ではないかという指摘が真実とすれば事実と創作とが入り混じっているのだろうか。

いずれにしても倭国新羅任那で戦ったという事実を日本書記、三国史記の双方に記されていることになる。

■蘇那曷叱知(そなかしち)
蘇那曷叱知は任那からの朝貢があった際の朝貢使とされる古代朝鮮の人物である。

日本書記、崇神天皇65年。
任那から朝貢のために来朝する。
そして垂仁天皇2年、帰国した。

帰国の際に天皇から任那王へ赤絹100匹が贈られた。
しかし、新羅に奪われたという。
これを原因とし、任那新羅の争いが始まったとされる。

さきほどの三国史記において昔于老が倭国の使者を接待したときに「葛那古」が登場した。これは日本書記の「蘇那曷叱知」のことなのだろうか。
あるいは三国史記が日本書記を引用したのだろうか。

なお日本書記の垂仁天皇2年の分注において大加羅(大加耶加耶諸国の1国)の王子、都怒我阿羅斯等による任那(みまな)の由来に関する伝承が記される。

出典:蘇那曷叱知 - Wikipedia

これから都怒我阿羅斯等と蘇那曷叱知を同一視する説がみられる。

その場合、
・都怒我阿羅斯等は加羅国王の息子である

よって蘇那曷叱知は
加羅国王の息子である
・日本書記の都怒我阿羅斯等の別名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)
・角鹿(つぬが)から転じた敦賀(つるが)、現在の福井県敦賀市に関連
という人物であったことになる。

この
・蘇那曷叱知
任那(ミマナ)
崇神天皇・御間城入彦(ミマキイリヒコ)

に関連して別記事にて紹介していく。

おそらく、だが于老はうろ覚えのウロ。

<参考>
昔于老 - Wikipedia
蘇那曷叱知 - Wikipedia

347.新羅の王子・微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)と葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)

本記事では新羅をテーマとして古代を明らかとしていく。過去記事にて新羅の微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)やヤマト王権の古墳群・~前期後半までを紹介。その中で、ヤマト王権・前期の中では池田古墳群・池田9号墳に新羅のミズラをしていると思わしき人物埴輪の存在を示した。今回は微叱己知波珍干岐と葛城襲津彦の関係を示す。次の流れで紹介していく。

・天日槍アメノヒボコの渡来
・婆娑尼師今(ハサムキム)が微叱己知波珍干岐を遣わす
・宇流助富利智干(うるそほりちか)
・汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)
・考察:~倭国とミサフン~

■天日槍アメノヒボコの渡来

日本書紀垂仁天皇3年3月条で新羅王子の天日槍アメノヒボコが渡来したとされる。
そして天日槍は但馬国の出嶋(いずし)の人太耳のむすめ麻多鳥(またを)をめとり、但馬諸助(たじまもろすく)を生んだとする。

そしてこの但馬諸助の子供が但馬日楢杵(たじまひならき)、但馬日楢杵の子供が清彦(きよひこ)、清彦の子供が田道間守(たじまもり)とされる。

清彦は垂仁天皇88年7月条でも登場する。
田道間守を三宅連(みやけむらじ)の祖と記している。

↓はアメノヒボコを取り上げた回

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■婆娑尼師今(ハサムキム)が微叱己知波珍干岐を遣わす

日本書紀仲哀天皇9年10月3日にて。
新羅の第5代王・婆娑尼師今ハサムキムは微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ、第十七代王の奈勿尼師今の子の未斯欣・ミサフン)を人質として官軍に従わせた。

↓は微叱己知波珍干岐を取り上げた回、婆娑尼師今が登場

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■宇流助富利智干(うるそほりちか)

同・仲哀天皇9年12月14日、誉田天皇(応仁)が筑紫に生まれている。

この条にて神功皇后新羅を討つ話が記される。

そして新羅の王、宇流助富利智干(うるそほりちか)が内官家(うちみやつけ)として倭国朝貢することを誓ったと記す。

■汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)

神功皇后摂政5年3月7日、新羅王は汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らを遣わして倭国朝貢した。

ここで、先に質としていた微叱己知伐旱(みしこちほつかん)を返して欲しい思っていた。

そこで、許智伐旱(こちほつかん)に次のように言わせた。

使者の汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)らが言うには、我が王(こきし)は臣(やつこ、ここでは微叱己知伐旱のこと)が久しく帰らないので妻子を没収したという。願わくば、本土に帰りたい。そして嘘か本当かを確かめたい。


神功皇后はこれを許す。
そして葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を副えて遣わした。
ともに対馬に至る。

鉏海(さひのうみ)の水門(みなと)にとまった。

このとき新羅の使者の毛麻利叱智(もまりしち)らは微叱旱岐(みしかんき)を船に載せて新羅に逃れさせた。
人形を微叱許智(みしこち)の寝ていた床において病人にみせかけた。

そして葛城襲津彦にいう。
微叱許智(みしこち)がたちまち病におかされ、死にそうだと。

襲津彦は人を遣わし、病をするものをみさせた。そして欺かれたことを知る。

襲津彦は新羅の使者・三人をとらえて檻中(うなや)に閉じ込め、火を放った。

そして新羅にいたって、蹈鞴津(たたらのつ、現在の慶尚南道多大浦)についた。草羅城(さわらのさし)を攻撃した。そして捕虜を連れて帰ったとする。

このときの人びとを桑原(くわはら)、佐備(さび)、高宮(たかみや)、忍海(おしぬみ)の四つの村の漢人(あやひと)らの祖先とする。

三国史記、三国遺事にも類似の話があるとされる。未斯欣の奪還について、史記新羅本紀第四では訥祇麻立干(とつぎまりつかん、在位:417年~458年)の2年、418年としているとされる。

新羅の王号が尼師今(にしきん)から麻立干(まりつかん)へと変わる件を過去記事で取り上げた回

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↓は新羅(しらぎ、しら、シルラ)を扱った回。400年頃、新羅にはローマからの渡来人が到着していた考えられる

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↓は5世紀後半、新沢千塚古墳126号墳が築造される。
池田遺跡と新沢千塚古墳群は約8kmの距離。

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■考察~倭国とミサフン~
ミサフンが微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)。
新羅にローマ、バチカンを示す官位あり。
時は東アジアでは五胡十六国時代(304年~439年)、西洋ではエフェソス公会議・431年の手前の時代。

ミサフンのミサはキリスト教を信仰した人物と推定する。

あわせて武内宿禰の弟とせっていされる古事記の味師内宿禰(うましうちのすくね)、日本書紀の「甘美内宿禰」は「味師」が「ミシ」とも読める。

また武内宿禰との仲の悪さから、味師内宿禰はミサフンであったのでは。

なお、武内宿禰紀伊国出身として記されている。

この説が正しいとしたとき。
本記事ではミサフン(新羅の王子)と葛城襲津彦(倭国の武人)との関係を示した。

一方、蘇我氏や葛城氏の親が武内宿禰とされる。
よって「武内宿禰」と「味師内宿禰」は兄弟の設定である。単に創作なのか、そうとしてもなぜ兄弟の設定とする必要があったのか。武内宿禰にはまだまだナゾが残されているといえる。

そして413年頃~478年頃まで、倭の五王による遣使の時代となる。

<参考>
アメノヒボコ - Wikipedia
三韓征伐 - Wikipedia